慶長20年春、
才蔵はあいかわらず
青子の行方を追っていた。
お国はこれまでのこだわりを捨てさり、
大坂城で
隠岐殿に仕えていた。そしてついに
家康が豊臣家に対して大坂城の立ち退きと牢人の追放を要求してきた。
大野修理は、城内で徳川方の要求について方策を話し合う軍議をもつが、そこに
幸村や
又兵衛たち牢人の姿はなかった。その幸村は再戦が近いと見て、
治作に武器弾薬の調達を頼む。そんな中、大坂では徳川方による牢人狩りが始める。須磨─。青子は
獅子王院になぜ江戸方についたのかと尋ねる。獅子王院は出世したい、侍になりたいと答えた。そのためには大坂工作を成功させ、青子を
上臈として江戸へ差し出さねばならない。その功によって、士分取り立てを考えようと
板倉は獅子王院にいったのだ。青子は聞く「青子が江戸に下れば、そなたは侍になれるのか」。そして青子は江戸行きを決意する。しかし獅子王院の顔は悲しい色を映す。青子は責めるように問う「なぜわがままを許す。なぜつくそうとする」。獅子王院は「姫はまるで…」と言いかけ─。4月4日、将軍
秀忠は密かに諸国の大名に大坂征討を命じ、18日には家康が
二条城に入った。24日に
淀殿の使いが和親を求めるが、家康はあくまで大坂城立ち退きを要求、それは豊臣家に対する事実上の宣戦布告であった。そして5月3日、家康は大和の国・法隆寺に陣を敷いた。ついに大野修理は牢人たちを収集し軍議を開く。そして後藤又兵衛の策が入れられる。才蔵は又兵衛の陣に招かれ、出陣前の又兵衛と茶を味わう。そこへお国から、修理が又兵衛の策を自分の建策として
秀頼に報告したことを知らされる。その翌日未明、徳川軍が国境を越えてしまっているのを見た又兵衛は、独断で約3千の兵を率いて出陣し、徳川軍に猛然と突っ込んでいった。そして夜が明け、5月6日。援軍は間に合わず、後藤又兵衛は大坂の夏の野に果てた。幸村と
明石掃部、
毛利勝永は秀頼の出陣を修理に取り付け、一気に家康の本営を攻める作戦を立てる。才蔵は明石軍に同行し、家康の首を狙う。決戦前夜、みなそれぞれに別れを惜しんでいた。獅子王院は青子に数日うちに京に戻ると告げ、青子は引き戸の影の獅子王院に問いかける「私のことを『まるで…』と言いかけた、その先を」と。獅子王院のいらえに青子は、ただ一つの願いを口にした。「私を海につれていっておくれ」。5月7日、最終決戦の火蓋は切って落とされた。幸村は徳川方の真只中と突っ切って家康の本営を襲った。その凄まじさは、家康をはじめ側近の武将たちが本営を逃げだすほどであった。幸村は
佐助を大坂城に返し、秀頼の出馬を嘆願させる。しかし秀頼出馬はかなわず、その間に体制を整えた徳川軍が圧倒的な兵力で反撃を始めた。そして毛利軍が退却、幸村も押されはじめる。
秀頼出馬の合図を待って出遅れた明石軍は、時既に遅く、もはや家康に近づくことはできないとみて敗走を決める。才蔵は幸村を追って、佐助と
茶臼山の北へ急行した。しかし、幸村は側近をことごとく失い、
安居天神で首のない躯となっていた。不遇の名将はここに、49年の生涯を閉じた。