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用語集
ドラマに登場するさまざまなことばを集めて勝手に解説しています。
  • 建造物、地名

セミナリオ(せみなりお)
イエズス会の宣教師が作ったキリシタンの学問所。京都所司代によって次々と破壊された。才蔵は、破壊されるセミナリオの門前に飛び出し、マリア像を抱きしめる女を役人がいたぶるのを見て飛び出し、女を助けて大暴れする。この時、所司代に捕まり名乗った名が「泉州津野屋宗全の飛脚番・才助」(#1
蛇足
[Seminario]イエズス会とはキリスト教、カトリック教会の男子修道会。日本や中国では耶蘇(やそ)会とも呼ばれた。セミナリオは、そのイエズス会が日本人のキリシタン聖職者を養成するために設置した宗教教育施設。「神学校」と訳される場合が多い。天正7年(1579年)にはじめて開設され、織田信長に保護された。キリスト教の他にラテン語や西洋の音楽、美術工芸なども教えていた。しかし徳川氏が政権を執ってからは迫害され、慶長19年(1614年)には消滅した。
ちなみに、第1回の隠岐殿のセリフ「パードレはどこへ送られたのですか」の「パードレ[padre]」とはポルトガル語で神父のこと。宣教師を指す。同じく神父を指す「伴天連(バテレン)」は、このパードレが転じた言葉。
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八瀬のかまぶろ(やせ-の-かまぶろ)
洛北にある湯治場。才蔵孫八を連れて湯治に訪れた。その時の偽名が「肥後の阿蘇大宮司家の家来、齋藤縫殿頼仲(さいとう-ぬい-よりなか)」。ここで堺仕を辞めたことを孫八に告白し小言をもらう。その後、隠岐殿と湯殿で遭遇、風雲の渦中に飛び込む元となる(#1)。大坂城落城後、才蔵はお国を伴って再びここを訪れる(#23)。
蛇足
八瀬は洛北(京都の北)、比叡山のふもとの高野川の清流に沿った湯治場。「かまぶろ」とはいわゆる「熱気風呂」のこと。岩で作ったかまくらのような岩部屋の室内に入ると、中は適度に熱せられていて塩水で濡らした莚が敷いてある。青木葉を敷いてその香気をリラックス効果に使ったものもあった。そこに横たわり十分汗を流したら隣の湯殿に移り湯水で汗を流す。傷や疲れ、疝気によく効く。神武天皇の兄・五瀬命(いつせ-の-みこと)が矢傷を癒したという伝えがあり(原作)、また壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が矢傷を癒すために用いたとも云われている。京に近い八瀬のかまぶろは当時でも有名な湯治場で京の尊きところはもちろん、諸国の大名や商人がよく訪れたという。
話が変わるが、この大海人皇子は実は忍者で、日本の伊賀甲賀をふくめたほぼすべての忍者の祖であるとか説があるようだが、真偽はいかに…?
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分銅屋
分銅屋(ふんどう-や)
京の三条にある口入屋(くちいれ-や/依頼主に人足を世話する)。伊賀者の京での根城であり連絡先。 孫八が番頭として店を取り仕切っており、看板娘は信乃菊千代も常駐しているようだ(忍び仕事のかたわら、人足仕事もしている模様)。 のちに才蔵が耳次お雪を連れてくるが、獅子王院によって爆破されてしまう(#18)。
蛇足
2階屋で裏庭も広い。上階は住まいになっている。おそらく孫八と信乃は住み込み、菊千代は通いではないか。各所に忍びの仕掛けがあり、鍛錬や緊急時の退路となっている。原作では分銅屋は室町の角に店を構えている。
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閑古堂
閑古堂(かんこ-どう)
京の栄町筋二条にある武具屋。主人は治作。実は大坂方支援の隠れた拠点。幸村や大坂方隠密が出入りする。八瀬への道中で刀を折ってしまった才蔵はここで刀を求め、たまたま滞在していた幸村と言葉を交わした(#1)。看板娘は小若。小若は伊賀にお使いに行き、獅子王院に殺されてしまう(#9)。のちに分銅屋を失った信乃が2代目看板娘になるが、堺屋利兵衛の命令で店は閉じることになる(#18#20)。
蛇足
店構えにしては大きな屋敷らしく、中庭を持った造りになっている。堺屋の商家らしく椅子とテーブルを置いた洋間もあり、才蔵と大坂方隠密たちの集会所になっていた。
才蔵は閑古堂で刀を求めた際、金子が足りず銀1匁を借りとするが、のちに孫八を傷つけた佐助に「薬代」としてこれを付けた。しかしこの分は先に孫八からせしめており、こちらはちゃっかり遊興費に化けた。霧隠才蔵、侮れず。最終回で治作にスカウトされていたが、案外商人が天職かも。
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真如堂
真如堂(しんにょ-どう)
黒谷真如堂。京でのつなぎ(接触)ポイントのひとつ。佐助お国から八瀬のかまぶろの男(才蔵)が大納言家に現れたと聞き、獅子王院だと勘違いする(#1)。また家康の長寿祝いの諜報活動に出た甲賀衆と佐助とのつなぎとしても使われた(#9)。影法師の才蔵が身を隠した際に佐助とのつなぎ場所として指定、隠岐殿は才蔵に俊岳暗殺を依頼し、お国は狼狽する(#17)。
蛇足
鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざん-しんしょうごくらく-じ)。真如堂は通称。現在地は京都市左京区浄土寺真如町。比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺。桜と紅葉の名所。永観2年(984年)、戒算上人(かいさん-しょうにん)が開山。比叡山常行堂から移された本尊の阿弥陀如来立像は京都六阿弥陀仏のひとつ(六阿弥陀めぐりの第一番寺)で、本堂ともども重要文化財。真如堂の南には黒谷光明寺が甍を並べている。「黒谷」とは真如堂と光明寺が建つ小丘のこと。
真如堂は時代劇と関係が深い。日本初の『本格的』な劇映画「本能寺合戦」(明治41年/1908年)は、マキノ省三(本サイト、登場人物>徳川忍>娘 参照のこと)によって真如堂で撮影された。現在でも鬼平犯科帳をはじめ、多くの時代劇の舞台として登場している。(ちなみに、『日本初』の劇映画は、1899年(明治32年)に公開された「ピストル強盗清水定吉」)
豊臣と徳川の隠密が甍を並べた隣同士で活動か、けっこう盲点かも。と思ったら、当時真如堂は京極今出川(寺町今出川?現在の上京区真如堂突抜町、真如堂前町あたり)にあったらしい。今出川(晴季)邸付近か。
元々真如堂は、現在の真如堂の東北、「元真如堂」と呼ばれる換骨堂(かんこつどう/左京区浄土寺真如町)にあった。その後、戦災や火災などによって数度の移転を繰り返したため、京都市内にはかつて真如堂があったことを示す地名がいくつも残っている。いわく、上京区元真如堂町(一条西洞院/いちじょうにしのとういん)、中京区真如堂町(烏丸二条)、上京区真如堂突抜町、真如堂前町(京極今出川)など。1587年頃、秀吉によって京極今出川に移され、元禄6年(1693年)に東山天皇の勅願により現在地に落ち着いた。
それにしても、佐助に隠岐殿湯殿闖入の犯人にされた獅子王院は濡れ衣もいいところだ。のちに真犯人は才蔵とわかったのだが、獅子王院としては甚だしく心外に思ったことだろう。あ、でもお国の行水を覗いてたなあ。(えっ、覗いたわけじゃない?)
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蓮台寺
蓮台寺(れんだい-じ)
才蔵青子からの付け文で呼び出された寺。青子に櫛がほしいと言われ持っていったが、そこに待っていたのは隠岐殿だった。佐助たちに囲まれた時(隠岐殿に無礼を働いた時?)その櫛を落す。それをお国が拾った。(#2
蛇足
上品蓮台(臺)寺(じょうぼん-れんだい-じ)。京都市北区紫野十二坊町。聖徳太子が創建し、秀吉の厚い庇護を受けた大寺院。かつて12の子院を擁し「九品三昧院・十二坊」とも称された。春にはしだれ桜がみごとに咲き誇る。原作では「蓮台院」となっており、大納言家の菩提寺。蓮台院=蓮台寺?
母さん、僕のあの櫛、どうしたんでせうね?  ええ、冬、青姫のために購い、蓮台寺でいつのまにか落としたあの櫛ですよ。母さん、あれは気に入った櫛でしたよ。僕はあのときずいぶんくやしかった。だけど、いきなり佐助が襲ってきたもんだから…
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黒谷光明寺
黒谷光明寺(くろだに-こうみょう-じ)
江戸方に腕を売りたいという才蔵に対して獅子王院が指定した場所。訪れた才蔵に寺男が襲いかかり、これを倒すところを俊岳が盗み見、才蔵の腕を計った。(#3
蛇足
黒谷金戒光明寺(くろたに-こんかいこうみょう-じ)。京都市左京区黒谷町。浄土宗の大本山。法然上人が比叡山の黒谷を下り草庵を結すんだのがはじまり。梅の花が美しい。新撰組などで知られる幕末京都守護職 会津藩主・松平容保率いる一千名の本陣にもなった。北隣は真如堂。
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双ヶ岡黒屋敷
双ヶ岡黒屋敷(ならびがおか-くろ-やしき)
徳川方・俊岳の京のアジト。獅子王院大坂城から青子を連れだし隠し置いた(#8)。ここの茶室から俊岳が獅子王院に指令を出していた。お国が俊岳にたびたび報告に訪れ(#3)、後に別れを告げた(#19)のもこの茶室。才蔵もこの茶室で隠岐殿暗殺を命じられた(#4)。
蛇足
双ヶ岡は京都市内の北西に位置する標高116mの小高い丘。京都市右京区。 国の名勝に指定されている。山腹に古墳群がある。古くは双の岡といい、神楽岡、船岡山とともに風光明媚な場所として都人から愛されてきた。 周辺地は古くから天皇の遊猟地で、「徒然草」の兼好法師の住まいがあった地としても有名。現在、一帯は歴史的風土保存区域に指定されている。
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石楠花寺
石楠花寺(しゃくなげ-じ)
再び青子の呼び出しで才蔵が訪れた寺。確かに青子はいたが、彼女も才蔵に呼び出されたと主張。しかも供の者はいつのまにかいなくなっていて、見知らぬ者たちに連れてこられた模様。2人は一晩を寺であかす。この時青子は「上臈」の話を才蔵にする。翌朝、庭で俊岳が待っていた。俊岳は、才蔵が青子に執心していると聞き「誠意」のつもりでかどわかいてきたと主張し、才蔵の腕を買いたいと申し出た。(#3
蛇足
金光峯寺志明院(こんごうぶ-じ-しみょう-いん)。岩屋山志明院(いわや-さん-しみょう-いん)と号す。京都市北区雲ケ畑出谷町。 役の小角(えん-の-おづぬ)が創立、のちに空海が再興したという古寺で、石楠花の美しさは随一。
俊岳に腕を買いたいと言われ、才蔵は金20枚、50石扶持で客分としての召し抱えを要求する。あまりのふっかけぶりに獅子王院は怒り心頭。しかし太っ腹俊岳は100石でもいいと発言(後日、黒屋敷にて)。あまりにあっさり承諾する俊岳に、こういうやり方もあるのかと獅子王院が思ったかどうかは不明。金20枚を前金でもらった才蔵は、佐助を巻き込んで室町で遊興三昧。しかしのちに与えられた仕事はひとつもこなさず、幸村に寝返る。まさにぼったくり。
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紅葉屋敷
紅葉屋敷(もみじ-やしき)
隠岐殿の京の隠家。隠岐殿暗殺を受けた才蔵が忍び込むがお国に阻まれる。(#4
蛇足
神楽ヶ岡にある大納言家の別邸。庭に楓の種類が多くある。特に唐錦、夕顔、若葉といった品種が見事。(原作)
京都市左京区吉田神楽岡町か。 京都大学の「旧制第三高等学校寮歌 逍遙歌 紅萠ゆる」に「神楽ヶ岡」という言葉が登場する。
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青連院(しょうれん-いん)
隠岐殿青子を茶会に招いた寺。が、実は茶会の誘いは偽りで、大納言家を出た青子は佐助らに拉致され、そのまま大坂に連れ去られた。(#4
蛇足
青蓮院。京都市東山区粟田口三条坊町。 青蓮院門跡(しょうれん-いん-もんぜき)は、天台宗の京都五箇室門跡の一つに数えられる。
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方広寺(ほうこう-じ)
天正14年(1586年)に豊臣秀吉が京都東山に大仏殿を建立。 文禄5年/慶長元年(1596年)に起こった慶長大地震によって崩壊。その後、徳川家康の勧めによって豊臣秀頼が再建。片桐且元が再建の奉行を務め、大工頭は中井正清。慶長18年(1613年)早春に火が出て、完成近い本堂が焼失。京のあちこちで徳川方が火をつけたと噂が広がるが、京都所司代は人足の焚火が原因だとふれを出した(#4)。慶長19年4月に梵鐘が完成(#9)。家康は同年7月、鐘銘文に徳川家を呪う文字があるとして、大仏殿の開眼供養を延期させた(#12-13)。
蛇足
京都市東山区茶屋町。豊国神社の北隣り。天台宗山門派の寺。大仏殿ともいう。天正14年(1586年)豊臣秀吉が奈良・東大寺に倣って造立。文禄4年(1595年)に完成するも、 慶長元年(1596年)閏7月に地震により消失。豊臣秀頼が再建を図るが、慶長7年(1602年)再建中に出火炎上(慶長9年説あり)。慶長13年(1608年)秀頼は再び大仏再建を企図、慶長17年(1612年)に完成。その後、寛文2年(1662年)の地震で小破。寛文7年(1667年)に再建。寛政10年(1798年)に落雷。天保14年(1843年)に寄進により再建。昭和48年(1973年)焼失。現在は「国家安康君臣豊楽」の銘文が刻まれた梵鐘が残るのみ。
こう並べると、ものすごい勢いで建立と倒壊を繰り返しているように見えるが、歴史のスパンからいったらたいしたことはないのだろうか。劇中の放火は、慶長7年の火災を題材にしたものか。
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大坂城
大坂城(おおさか-じょう)
天正11年(1583年)、豊臣秀吉が築城。3重の人口濠と三方を天嶮に守られた難攻不落の巨城。修理曰く「たとえ百万の軍勢に囲まれようと大坂城はビクともせん。城門はあくまでも固く、城壁あくまでも険しく、濠あくまでも深い。金城鉄壁。古今東西世界に比類なき城塞」(#14)。しかし南方のみ自然の障壁がなく、最大の弱点といわれていた。幸村は入城するとすぐにこの城南の三ノ丸の濠の外(平野口)に小城塞「真田丸」を築く(#18)。家康もこの弱点は当然知っており、城南の茶臼山に本陣を置き、主力を集めた。さらに城攻めで多く兵を失うことを嫌い、和議を仕掛けて濠を埋めさせた(#21)。
隠岐殿の招きで青連院の茶会に向かった青子は、そのまま大坂城に連れ去られる(#4)。青子は忍び込んできた才蔵獅子王院に天守閣へ連れていけとせがむが断られ、自力で天守閣に登り「鉄砲狭間(てっぽうざま)」と呼ばれる城壁の穴から初めて海を見る。青子はしばらく大坂城に留め置かれるが、獅子王院によって再び連れ出される(#8)。
慶長20年(1615年)5月8日、徳川軍に完全に包囲された大坂城の糒蔵秀頼淀殿大野修理らは自決し、隠岐殿、佐助は討死した(#23)。
蛇足
石山本願寺であった地に豊臣秀吉が築城。1年半後に本丸が完成。その後、秀吉が存命した15年間をかけて二ノ丸、惣構(外濠)、さらに二ノ丸と惣構とのあいだに三ノ丸が建設される。大坂城が築城されたこの場所は、西方に海をひかえ北方と東方には川を巡らした、いわば天嶮に守られており、3重の人口濠と天然の海川の濠を持つ難攻不落の巨城と云われた。ただ南方だけは大地が平らかで、防御となるべき天嶮がなかった。秀吉は築城当時からここを最大の弱点として憂慮していた。
大坂の陣の折り、家康はこの城南の茶臼山に本陣を置きながら、難攻不落の巨城を戦闘によって攻め取ることを嫌った。なぜなら、これから徳川政権を確固たるものにしていこうとする家康は多くの武将や兵を失いたくなかったし、また逆に武功をたてられても恩賞となる領地もこの時期ほとんど残っていなかった(恩賞によって大名が力を持つことも嫌った)からだ。それに家康は城攻めを大の苦手としていた。このため、家康はまず濠を埋めさせるための謀略を仕掛け、大坂城を裸城にしようとした。そして淀殿と大野修理はこの策略にまんまとひっかかり、己らの死刑執行命令書に自らサインをしてしまったのだった。
豊臣氏滅亡後の1619年、大坂城は徳川幕府直轄領となり、落城した豊臣大坂城は徳川大坂城として再建される。それは徳川の威信を全国に示すため、豊臣時代の石垣や堀をすべて破却してその上に新しく築かれた。しかし幕末には多くの建物が焼失してしまい、現在の大阪城(大坂城ではない)は昭和以降に再建されたものである。現在は大阪市中央区に大阪城公園として開放されている。
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高野街道(こうや-かいどう)
紀州・高野山への参詣道。京・大坂から紀見峠を越えて九度山などを通り、高野山へ至る。隠岐殿一行は九度山に蟄居する真田幸村を訪ねて、高野街道を下った。それを獅子王院が追う。同じく才蔵も幸村暗殺を胸に高野街道の間道(主街道をはずれた抜け道)を行くうち、耳次ら盗賊に遭遇、そのアジトに捕らわれたお国を救い出す。その後、お国と休息した樵小屋で佐助の襲撃を受ける。(#6
蛇足
弘仁7年(816年)に空海が高野山に開いた金剛峰寺(こんごうぶ-じ)に参詣するための街道とされた。東高野街道(起点・京)、中高野街道(起点・大坂)、下高野街道(起点・大坂)、西高野街道(起点・堺)と主に4つのルートがある。いずれも長野村(現在の河内長野市)を通り、紀見峠を越えて橋本村(和歌山県橋本市)に至る。そして九度山村などを通るいくつかのルートを辿り、高野山に至る。
隠岐殿一行が使ったのは、中高野街道または下高野街道であろう。耳次らが盗賊を働き、才蔵がお国を助けたのは長野村から紀見峠までの山中と思われる。 才蔵が耳次を別れたのはおそらく天見川。
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紀見峠(きみ-とうげ)
高野街道の宿場町。お国は雨をしのぐ耳次の家で、才蔵に紀見峠まで連れて行ってくれるように頼む。それは幸村暗殺を目指す才蔵を排除しようとする佐助の企みであった。(#6
蛇足
高野詣の旅人が一服する峠の茶屋で、後に宿場町になった。大阪府河内長野市と和歌山県橋本市の境界上に位置する峠。標高400m余。国道371号線。現在は紀見トンネルが開通し、峠越えをする者はあまりない。
隠岐殿と佐助、お国が合流したのはこの紀見峠の宿場町と思われる。原作では才蔵とお国が紀見峠(紀ノ見峠)に投宿し、佐助の襲撃にあう。紀見峠から九度山の真田屋敷までは4里ほど。
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九度山(くどやま)
真田昌幸幸村父子が配流された紀州・高野山の麓の村。九度山村。真田父子は、ここに真田屋敷を構えた。
蛇足
和歌山県伊都郡九度山町。真田父子は当初、真田家の菩提寺である高野山蓮華定院(れんげじょういん/和歌山県伊都郡高野町)に身を寄せたが、高野山が女人禁制であること(幸村は妻を随行していた)や、山の寒さが厳しかったため、麓の九度山に居を移した。
現在の九度山町は、人の口-気管-肺までを図解したような形をしている。町の北側を紀ノ川が東西に流れ、まるで口から入った空気が、左肺に流れ込むように丹生川(にう-がわ)が町を横切っている。真田屋敷はちょうど喉の辺り、紀ノ川と交わる丹生川の東岸にあった。
九度山の地名は、弘法大師が、女人禁制のため山に入れず麓の慈尊院(じそんいん/九度山町)にいる母を月に九度訪ねたことに由来すると云われている。
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真田屋敷
真田屋敷(さなだ-やしき)
蛇足
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駿府城
駿府城(すんぷ-じょう)
蛇足
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田中城
田中城(たなか-じょう)
蛇足
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名古屋城
名古屋城(なごや-じょう)
蛇足
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二条城
二条城(にじょう-じょう)
蛇足
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真田丸(さなだ-まる)
大坂の陣の折り、真田幸村大坂城平野口の外に築いた出城。正面には家康が陣を置く茶臼山がある。普請途中の真田丸を隠岐殿が訪れ、幸村の戦いに対する前向きな態度に影響を受けたのか、京に集結する徳川方の攪乱工作を思いつく。また、才蔵は幸村からゴロタ石の話を聞き、隠岐殿のこの計画に乗る。(#16
途中、俊岳の妨害がはいり工事が遅れた(#17)。冬の陣において幸村は、真田丸の前に数万の徳川軍を誘き出し撃退して名を馳せる(#19)。しかし、和議により、外濠、二ノ丸などとともに取り壊された(#21)。
蛇足
真田丸の築かれた場所は平野口、玉造口と2通りの名が見られるが、どちらも同じ場所を指しているようだ。現在の真田山公園(大阪市天王寺区真田山町)の辺りにあったとされている。
大坂城に入城した幸村ら牢人は積極的な出戦を主張するが、大野修理や豊臣家側近から篭城を指示される。ならば城の弱点である南方に砦(出丸)を築きたいと幸村は願い出る。これについては、後藤又兵衛からも同様の願い出があり、両雄退かず一時険悪な雰囲気になった。しかし、幸村の兄が徳川方にあったため、砦建築は幸村寝返りのための策略ではという噂が城内に流れると、又兵衛はこれに憤怒して幸村に砦建築を譲った。
砦は平野口に築かれ、主の名を取り「真田丸」と呼ばれた。半月形の曲輪をしており、大坂城の南東の外濠の外にぽっこり飛び出している。主戦場となる場所であり、まさにその真っ只中に真田丸はあったといっていい。こういう場所に砦を築き、自らの陣にしようとしたのは、幸村も又兵衛もそれだけの自信と、その戦いによる名声を求めたからであろう。
劇中では才蔵と佐助たちが徳川軍を誘き出した、いわゆる「真田丸の攻防」であるが、史実では、真田丸の前に篠山とよばれる小丘があり、幸村はここに鉄砲隊を潜ませ、常に徳川軍(前田利常軍)に鉄砲を撃ち込んでいた。苛立った前田軍は篠山を越えて真田丸の堀際まで攻め込むが、これを待っていた幸村は真田丸から鉄砲による猛射を開始し、前田軍に大打撃を与える。さらに藤堂高虎、井伊直孝、松平忠直などが前田軍の突出を抜け駆けと思い、一斉に八丁目口、谷町口などに攻め込んだ。しかし城方の猛攻撃を受け戦場は大混乱となり、徳川軍は大損害を受けて、この戦いは豊臣方の勝利となる。大坂の陣の徳川方の戦死者の8割がこの戦いによるものだとされている。
この戦いでは幸村の名声ばかりが喧伝されているが、たしかに幸村は戦いの口火を切り、その戦果によって豊臣軍を鼓舞したが、内応者を事前に処刑したり、軍備を強化した後藤又兵衛をはじめとした各将の功績も大きい。また、誤爆を内応者の寝返りと勘違いして無闇に攻め込んできたものを迎撃したりと、この時は豊臣方に運が向いていた。
しかし、この真田丸も和議のあと取り壊されてしまう。一説には豊臣家側近の不甲斐なさに幸村が自ら壊してしまったとも云われている。
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相州屋
相州屋(そうしゅう-や)
隠岐殿が京・室町に開いた妓楼。京に集結する徳川方を攪乱するための隠密活動の根城。佐助をはじめとする甲賀衆とともに、引き抜かれてきた梅ケ枝桂木が客の相手をした。才蔵は隠岐殿に呼び出されて徳川方の侍大将の暗殺を依頼される。獅子王院影法師を騙るかぶきもの4人組を使って相州屋を探らせた。後に獅子王院と京都所司代の役人による襲撃を受け、隠岐殿は拉致され、店は壊滅的ダメージを受ける。(#16-17
蛇足
相州屋に偵察に来た獅子王院は、梅ヶ枝に顔を見られて逃げ帰るのだが、そんなにあせって遁走しなくてもと思うのは私だけだろうか。その前にスバラシイ啖呵を切った桂木にビビッたのかも。いずれにしても遊女は強し。獅子王院の相州屋襲撃が成功したのは、この2人が佐助と晴海によって連れ出されていなかったことが大きい(ほんとかよ)。いやしかし、梅ヶ枝&桂木vs獅子王院の図は想像するだけでとってもこわい(笑)
相州屋や梅ヶ枝たちが元いた遊女屋があった六条室町は、六条坊門小路にあったと思われる。現在の東本願寺の北側、五条通付近(京都市下京区若宮町)。豊臣秀吉の京都再興にあたり、当初「いろまち」は二条柳馬場(にじょうやなぎのばんば/中京区等持寺町?)に「柳町」として置かれたが、後に六条坊門に移された。そしてさらに江戸期に朱雀野(JR丹波口駅付近/下京区)に移され「島原遊郭」と称された。
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建仁寺(けんにんーじ)
禅寺。京での藤堂家の宿陣。獅子王院相州屋から連れ去られた隠岐殿が預けられた。境内には兵500が詰めていた。才蔵佐助は約30名の忍びを使い、霞の陣を仕掛け、隠岐殿救出に向かった。(#18
蛇足
建仁2年(1202年)に僧栄西(えいさい/1141-1215)が工を起こした一大禅刹で、南は五条、西は鴨川、東は下河原まで五万余坪あり、伽藍の様式は栄西の好みによって、中国の百丈山にまねたといわれている。(原作)
京都市東山区。臨済宗建仁寺派の大本山。京都最古の禅寺で山号は東山(とうざん)。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学であったが、第11世蘭渓道隆(らんけい-どうりゅう/1213-1278)の時世から純粋な臨済禅の道場となる。一時京都五山の一つに数えられるが、その後荒廃し、安国寺恵瓊(あんこくじ-えけい/?-1600)によって再建された。建仁寺には、俵屋宗達が描いた「風神雷神図屏風」や海北友松(かいほう-ゆうしょう)の襖絵「竹林七賢図」「雲龍図」「花鳥図」など数多くの宝物が残されている。
隠岐殿が捕らえられていた建仁寺の浴殿とは、七堂伽藍の一つ、浴室。但し、実際の建仁寺の浴室は寛永5年(1628年)に建立されたもので当時はまだなかった。七堂伽藍とは、山門(さんもん)、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、僧堂(そうどう)、庫院(くいん)、浴室(よくしつ)、東司(とうす)と呼ばれる禅寺の七つの堂宇(建物)のことである。建仁寺の浴室は待合・浴室・土間(火炊場)に三分されており、入浴法は湯気で体を温める蒸し風呂。浴室も修行の場であり、厳しい作法があった。
矢の根門は、建仁寺境内の南の正面に位置する勅使門のこと。切妻造りの四脚門で、扉や柱に矢の跡があることからそう呼ばれる。六波羅第の平重盛の館の門を移設したものと伝えられる。(重要文化財)
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知恩寺
知恩寺(ちおん-じ)
蛇足
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安居天神
安居天神(やすい-てんじん)
茶臼山の北。大坂夏の陣で茶臼山の徳川軍本陣を急襲した真田幸村は、あと一歩のところで家康追い詰められず、やむなく撤退してこの神社に逃れた。そこへ徳川軍の兵が現れ、覚悟を決めた幸村は松平忠直隊鉄砲組、西尾久作に討たれた。才蔵と、幸村の命により秀頼出馬を求めて大坂城に戻っていた佐助が駆けつけたときには、幸村は首をとられ、小助晴海も討死した後だった。(#22
蛇足
佐助の痛哭が涙をそそる。幸村の討死を聞いた隠岐殿の脳裏に桜が舞い散る。かつて大坂城を「まるで黄金じゃ」と讃えたその同じ場所で、想う人の死を聞き、黄金であったはずの城の落ちゆく明日を思う隠岐殿の心中はいかばかりであろうか。
現在の安居神社(安居天満宮)。大阪市天王寺区逢阪。少彦名命(すくなひこな-の-みこと/古事記、および日本書紀に登場する神)、菅原道真を祭る。境内には真田幸村戦死跡碑があり、真田幸村がここで討死にしたと云われている。
上町台地と呼ばれるこの周辺は、天王寺七名水と呼ばれる清水が湧き出、安居神社にもその一つ「安居の清水」が湧き出る「癇静め(かんしずめ)の井」と呼ばれる井戸がある。ここは長い間涸れ井戸だったが、2005年10月、大阪城甲冑隊の手により井戸が蘇った。くわしくはリンクページの「眞田丸〜大坂の陣で活躍した-真田幸村と彼のゆかりの地-を紹介〜」を参照いただきたい。
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糒蔵
糒蔵(ほしいぐら)
蛇足


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