天正11年(1583年)、豊臣秀吉が築城。3重の人口濠と三方を天嶮に守られた難攻不落の巨城。
修理曰く「たとえ百万の軍勢に囲まれようと大坂城はビクともせん。城門はあくまでも固く、城壁あくまでも険しく、濠あくまでも深い。金城鉄壁。古今東西世界に比類なき城塞」(
#14)。しかし南方のみ自然の障壁がなく、最大の弱点といわれていた。
幸村は入城するとすぐにこの城南の三ノ丸の濠の外(平野口)に小城塞「
真田丸」を築く(
#18)。
家康もこの弱点は当然知っており、城南の茶臼山に本陣を置き、主力を集めた。さらに城攻めで多く兵を失うことを嫌い、和議を仕掛けて濠を埋めさせた(
#21)。
隠岐殿の招きで
青連院の茶会に向かった
青子は、そのまま大坂城に連れ去られる(
#4)。青子は忍び込んできた
才蔵と
獅子王院に天守閣へ連れていけとせがむが断られ、自力で天守閣に登り「鉄砲狭間(てっぽうざま)」と呼ばれる城壁の穴から初めて海を見る。青子はしばらく大坂城に留め置かれるが、獅子王院によって再び連れ出される(
#8)。
慶長20年(1615年)5月8日、徳川軍に完全に包囲された大坂城の
糒蔵で
秀頼、
淀殿、
大野修理らは自決し、隠岐殿、
佐助は討死した(
#23)。
石山本願寺であった地に豊臣秀吉が築城。1年半後に本丸が完成。その後、秀吉が存命した15年間をかけて二ノ丸、惣構(外濠)、さらに二ノ丸と惣構とのあいだに三ノ丸が建設される。大坂城が築城されたこの場所は、西方に海をひかえ北方と東方には川を巡らした、いわば天嶮に守られており、3重の人口濠と天然の海川の濠を持つ難攻不落の巨城と云われた。ただ南方だけは大地が平らかで、防御となるべき天嶮がなかった。秀吉は築城当時からここを最大の弱点として憂慮していた。
大坂の陣の折り、家康はこの城南の茶臼山に本陣を置きながら、難攻不落の巨城を戦闘によって攻め取ることを嫌った。なぜなら、これから徳川政権を確固たるものにしていこうとする家康は多くの武将や兵を失いたくなかったし、また逆に武功をたてられても恩賞となる領地もこの時期ほとんど残っていなかった(恩賞によって大名が力を持つことも嫌った)からだ。それに家康は城攻めを大の苦手としていた。このため、家康はまず濠を埋めさせるための謀略を仕掛け、大坂城を裸城にしようとした。そして淀殿と大野修理はこの策略にまんまとひっかかり、己らの死刑執行命令書に自らサインをしてしまったのだった。
豊臣氏滅亡後の1619年、大坂城は徳川幕府直轄領となり、落城した豊臣大坂城は徳川大坂城として再建される。それは徳川の威信を全国に示すため、豊臣時代の石垣や堀をすべて破却してその上に新しく築かれた。しかし幕末には多くの建物が焼失してしまい、現在の大阪城(大坂城ではない)は昭和以降に再建されたものである。現在は大阪市中央区に大阪城公園として開放されている。