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用語集
ドラマに登場するさまざまなことばを集めて勝手に解説しています。
  • 人物

本多正純(ほんだ-まさずみ)
駿府城で大御所政治を行う徳川家康の側近。本多正信の嫡男。中井正清大坂城に入れ天守閣の図面をとらせたり(#4)、金地院崇伝と「方広寺鐘銘事件」を画策(#12)。また、彼が豊臣家に方広寺再建にもっと金をかけさせるよう板倉勝重に命じたすぐ後に、方広寺の完成近い本堂が焼失した(#4)。
蛇足
1565-1637(享年73)。江戸幕府の幕臣・大名。官位は従五位下。上野介。 父・正信は、家康が三河を統一して間もない頃に起こった内紛「三河一向一揆」で家康に背くが、本能寺の変以降家康に従い、家康の参謀として多くの陰謀を操った。秀忠が将軍になると正信は秀忠(江戸)の補佐役に、息子・正純が家康(駿府)の側近となる。大坂の陣でも家康に代わってさまざまな策略を巡らす。方広寺鐘銘文の釈明に駿府を訪れた片桐且元には戦さをほのめかせて脅し、同じく大蔵卿局らには敵意のない丁重な対応をして大坂城内に疑惑を起こさせた。大坂冬の陣の和議の際の壕を埋める罠も正純が仕組んだもの。劇中の板倉を陰で操っていたのはこの人といえるだろう。
大坂の陣後、家康、正信が相次いで没すると、それまで家康に付いていた正純は江戸幕府で浮いた存在となり、1622年「宇都宮城釣天井事件」で謀略にかけられ失脚する。正信はその権勢と仕業によって他の家臣、大名に妬まれるのを恐れ身を処したが、正純は父の教えを守らず奢り、最後は自らも謀略によって配流となる。
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中井正清(なかい-まさきよ)
徳川家康に仕える大工頭。家康が豊臣秀頼に再興させた方広寺建築の棟梁を務める。本多正純片桐且元を使って大坂城の片桐屋敷に逗留させ、「方広寺再建の参考にする」といって天守閣の図面をとった。(#4
蛇足
1565-1619(享年55)。従四位下。大和守。初代の京都大工頭。二条城、名古屋城、江戸城、駿府城の天守、江戸の町割り、知恩院、増上寺、内裏、日光東照宮など、徳川家に関わる増築・造営を任され、ついには大工としては異例の官位を賜わる。 父親の正吉は豊臣秀吉に仕えて大坂築城や方広寺大仏殿造営を行った。
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藤堂高虎(とうどう-たかとら)
伊賀・伊勢両国の領主。伊賀上野城の改築を行った。城の改築には極めてうるさい家康が伊賀上野城だけは例外として改築を許したのは、伊賀に兵を集めれば目立たず、川(服部川→木津川?)を使えば軍船を大坂まで進めることが出来、陸にしても一山越えれば大坂であるという地の利に目をつけたからである。幸村曰く「大坂にしてみれば、屏風の陰で槍を構えられているのと同じこと。家康は自らは仕掛けず、大坂が仕掛けてくるのじっと待っている」(#4)。大坂冬の陣の折り、京・建仁寺に宿陣し、獅子王院が拉致した隠岐殿を留め置いた(#18)。
蛇足
1556-1630(享年75)。身の丈6尺2寸(188cm)、当時としてはずば抜けて大きかったという。姉川の戦いにおいて15歳で初陣。生涯10人の主君に仕えた典型的な戦国武将。家康は、関ヶ原の戦いの後、築城の名手と評されていた高虎を意図的に伊賀に転封させる。高虎はその家康の意を十分受けて、自ら縄張り(城の設計)を行った。しかし完成間近の1612年、暴風雨のため天守が倒壊、その後再建されなかった。大坂の陣においる藤堂軍は、真田丸の攻防で大敗、夏の陣では長宗我部盛親と激戦を交わし(八尾の戦い)相手に大損害を与えるが、自軍も同じほど多くの兵を失った。 それでも、藤堂家は大坂の陣の功で加増を受け32万石にまでなる。
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片桐且元(かたぎり-かつもと)
豊臣家の家老。従五位下、東市正(ひがしのいちのかみ)。方広寺大仏殿再建の作事奉行を務める。本多正純の策略で中井正清大坂城の自分の屋敷に逗留させる(#4)など徳川方に便宜を図り、大野修理に疑心を抱かれる。また正純から方広寺鐘銘文に関する書状がを且元に送られ、且元は修理とともに駿府に弁明に向かった。そして家康の内意を大坂城に持ち帰る。(#13-14
蛇足
1556-1615(享年60)。父は近江の大名、浅井氏家臣の片桐直貞(直政?)。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦い(天正11年/1583年)で活躍、「賤ヶ岳七本槍」と称される。その後は施政面で活躍、文禄4年(1595年)には摂津国茨木城主となり、秀吉の晩年には秀頼の傅役の一人に任じられる。関ヶ原の戦いでは徳川家康に嫡男を人質に差し出し、戦いには不参加ながらも家康から知行を受ける。
関ヶ原以降、家康の命で豊臣家の家老を務める。これは内通ではなく、豊臣家の家臣でありながら家康にも仕えていたという不思議なポジションによるもの。といっても、この時期両者は表向きは主従の関係にあったので、似たようなポジションのものはけっこういた。これが後に「大坂城、犬も歩けばスパイに当たる」になるのだろう。且元はそんな自分の立場を理解してか、豊臣と徳川の対立回避に尽力する。
方広寺大仏殿再建の作事奉行でもあった且元は、開眼供養を目前にした徳川家からの中止命令に驚き、駿府へ弁明に奔る。これに対して本多正純が秀頼の大坂城退城を示唆する。しかし同じく淀殿の名代で駿府に赴いた大蔵卿局には、家康自らが「何も心配しなくてよい」とまったく逆の応対をし、淀殿や大野修理に且元への疑惑を植え付けた。その結果、命の危険を感じた且元は大坂城を退去する。そして、これが双方の挙兵のきっかけとなった。
且元は徳川軍に下り、豊臣方のさまざまな情報を徳川軍に与えた。冬の陣の和議受入のきっかけとなった大坂城への砲撃の指示をした(淀殿の在所を教えた)のも且元であり、夏の陣で秀頼らが山里曲輪の糒蔵に隠れていることも家康に教えた。且元はこれらの功績で戦後加増を受けているが、大坂城落城後わずか20日後に病没。その急な死に豊臣家を滅亡に追い込んだ自責の念で自害したのではとも云われている。
劇中では名前だけしか出てこないが、とってもキツい立場にいた人である。中井正清を大坂城の己の屋敷の逗留させ、スパイ活動をさせてしまったのは迂闊だが、両家の融和に尽力しようとしたのは事実だろう。しかし、方広寺鐘銘事件で家康と本多正純に嵌められ、とうとう味方から命を狙われる羽目になる。それを恨んで旧主の情報を流したのか、流さざるをえなかったのか、苦労人というかうまく利用されちゃったというか。もしかしたら戦後すぐに亡くなったのは「過労死」だったのかではないかと思ってしまう。
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九郎判官義経(くろう-ほうがん-よしつね)
源九郎義経(みなもとの-くろう-よしつね)。清和天皇を起源とする清和源氏の支流、河内源氏の棟梁である源義朝の九男として誕生。治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)において、劇的な大活躍により平氏を滅ぼす。戦功により左衛門府の判官の官位である左衛門尉(さえもんのじょう)を賜り、「九郎判官」と呼ばれた。
俊岳は、大坂に味方するであろう武将の一人として、真田幸村の暗殺を才蔵に命じる。その際「九郎判官義経に匹敵する真田幸村」と謳い、才蔵をその気にさせた。(#5
蛇足
1159-1189(享年31)。義経に関する説明は不要であろう。日本史を代表する悲劇のヒーロー。この人ほど多くの伝説を持つ人はいないのではないか。
「義経こそ、古今を通じて二人といない侍大将」と言い切る才蔵にとっても、義経は幼い日のヒーローだったのではないかと思う。義経の武勇をどこで知ったのか、それともこの時代では常識であったのか。
義経が活躍した治承・寿永の乱を扱った書物で、才蔵が生まれる前に編纂されたものとしては、「平家物語」「平治物語」「義経記(ぎけいき)」「吾妻鏡(あずまかがみ)」などが有名である。「愚管抄(ぐかんしょう)」も同じ年代を扱ってはいるが、これは天皇や支配者たちの政治倫理を論じた史論書なので、軍記物や歴史書とは毛色が異なるようだ。しかし、いずれにしても現代では容易に原文(または翻訳書)にあたることができるが、当時の市井の人々がそれらを易々と手にできたのかといわれると甚だ心許ない。あるいは現存していない(または私が知らない)民間伝承が数多く伝えられており、それらが才蔵の「ネタ元」になったのかもしれない。あの言い切りっぷりを見ると、幼い頃、大人が語るそれらの伝記を夢中になって聞いている才蔵少年が目に浮かぶ。また、平家物語を扱った「八島」などの能も少し前から人々の娯楽となっている。堺仕をしながらそういった興行をのぞいていたということも想像できる。
義経は、軍事に関しては天才であったが、政治に関しては素人だったと云われているようだが、才蔵や幸村はどうであったのだろうか。俊岳の言葉は、実はもっと深い意味を持っていたのかもしれない。
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氏家内膳正(うじいえ-ないぜんのしょう)
氏家行広(ゆきひろ)。内膳正は官位。伊勢桑名の大名。関ヶ原の戦いで西軍に組し牢人となった行広に隠岐殿は接触を図る。(#5
蛇足
1546−1615(享年70)。従五位下、内膳正。美濃三人衆の一人、氏家直元/卜全(ぼくぜん)の次男。兄の死後、家督を継ぎ、織田氏、豊臣氏に仕えて伊勢桑名二万二千石の大名となる。関ヶ原の戦いでは、中立を表明するも固持できず、西軍に組して戦後改易、牢人する。その後、荻野道喜(おぎの-どうき)と名乗り、家康の十万石の招きを退けて大坂城に入城。落城に際し、秀頼らと共に自害。
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金地院崇伝(こんちいん-すうでん)
臨済宗の僧にして、徳川家康の参謀の一人。京都所司代板倉勝重と共に宗教行政を担当し、1613年(慶長18年)12月に発布された伴天連追放令(#9)を起草。また、家康から駿府に呼ばれ「なんとか豊臣家と追い落とす方法はないか」と相談を受け、方広寺鐘銘事件#12)を画策する。
崇伝が駿府城に入ったと聞いた小助は「家康の悪巧みの影に崇伝あり」とつぶやき、憂慮する。(#8
蛇足
1569-1633(享年65)。父は足利家家臣の一色秀勝。足利家の没落とともに幼くして出家。若くして臨済宗の高僧となり、以心崇伝と号する。その後徳川家康に招かれ、京において朝廷・寺社・外交行政を司り、やがてその才を見いだされて家康の許で幕政に関与。「黒衣の宰相」と呼ばれ、「寺院諸法度」「公家衆法度」「勅許紫衣(ちょっきょ-しえ)法度」「伴天連追放令」「武家諸法度」「禁中並公家(きんちゅう-ならびに-くげ)諸法度」等を起草。「方広寺鐘銘事件」を画策するなどして、家康の参謀として徳川政権の基盤を築き上げた。
しかし家康の死後、神号問題で同じく家康の参謀であった南光坊天海に敗れる。幕府より10万石の待遇を受け、江戸に金地院を創建、僧録にまで上り詰めるが、紫衣事件で澤庵宗彭(たくあん-そうほう/いわゆる沢庵漬けの考案者)らの厳科を主張し、世間からは「大欲山気根院潜山悪国師」と呼ばれ、悪評を買った。
「黒衣の宰相」「家康の悪巧みの影に崇伝あり」。ものすごく悪知恵の働く坊さんだったようだ。同じ僧出身の板倉勝重(史実)とは大違いだ。思うに、劇中の板倉はこの崇伝と史実の板倉を足して2で割ったキャラクターだったのかも。いやもっと崇伝寄りか。
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ウィリアム按針(うぃりあむ-あんじん)
イギリス人航海士。本名はウィリアム・アダムス、のちに三浦按針と呼ばれた。1600年(慶長5年)に乗船していたオランダの商船が豊後(大分県)に漂着。その後、ヤン・ヨーステンらとともに徳川家康に保護され、外交顧問として仕えた。
幸村は、「按針やヨーステンは、イスパニア(スペイン)やポルトガルは交易の陰で耶蘇(キリスト教)の布教を目指し、キリシタンを増やして日本を奪う計画だと、家康に吹き込んでいる」と語った。(#7
蛇足
1564-1620(享年57)。当時ヨーロッパ各国は、極東進出を争い、商船や宣教師をさかんにアジアに送り込んでいた。イギリス人ウィリアム・アダムスは、1598年に極東を目指してロッテルダムを出発した5隻の商船団に航海士として乗り組んでいた。船団は途中数々の苦難に遭い、日本に辿り着いたのは彼やヤン・ヨーステンが乗船していたリーフデ号1隻のみ、出航時に総勢100余人いた乗組員もわずか20数人になっていた。
家康に謁見したアダムスは、その後江戸に招かれる。家康は、アダムスを通訳として外交に当たらせ、またその航海術や造船技術などを引き出した。アダムスの持つ西洋の知識や技術は徳川幕府に重用され、アダムスは三浦半島に領地を得て、三浦按針の名を与えられる。「按針」とは水先案内人を意味する。その後、平戸にイギリス商館の開館を願い出て許され、故国との交易に尽力する。生涯帰国は叶わず、平戸に没した。
ヤン・ヨーステン(1556-1623、享年68)の本名は、ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン。オランダの航海士。アダムスとともに家康に謁見。その後、朱印船貿易を担った。航海中、インドシナ沖で遭難。
この頃、ヨーロッパでは宗教改革が起こっており、その波及を受けた訪日中の西洋人は、旧教国(カトリック教)のポルトガルやスペインなど(南蛮人と呼ばれた)と、新教国(プロテスタント教など)のイギリスやオランダなど(紅毛人と呼ばれた)に分かれて、お互いを「日本を占領する目的がある」などと幕府に喧伝し、利権を争っていた。キリスト教の布教を快く思わない家康は、紅毛の商人アダムスやヨーステンらの言葉に耳を傾け、南蛮の宣教師を排除した。
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今井宗薫/茶屋四郎次郎(いまい-そうくん/ちゃや-しろうじろう)
ともに安土桃山・江戸期の豪商。今井宗薫は堺の商人。豊臣秀吉の茶頭・御伽衆(話し相手や書物の講釈などをする者)として仕え、秀吉没後は徳川家康に接近し、側近となった。茶屋四郎次郎は京の商人。幕府より朱印状を受けて外国貿易に従事した徳川家の御用商人。長崎で代官補佐を務めたのち、京に戻り家康の側近となる。(#8
蛇足
今井宗薫(1552-1627、享年76)の本名は兼久(かねひさ)。父・宗久(そうきゅう)は織田信長に重用され、豊臣秀吉の茶頭を務めて、津田宗及、千利休とともに名声を博した。宗薫は徳川三代(家康-秀忠-家光)に歴仕、晩年には旗本となる。家康の六男・松平忠輝と伊達政宗の息女・五郎八(いろは)の婚約成立にも尽力した。
茶屋四郎次郎清次(1584-1622、享年39)は茶屋の三代目当主。織豊時代からの京の豪商で、当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名した。「茶屋」は屋号であり、本姓は中島。初代・茶屋四郎次郎清延(1545-1596)は、本能寺の変の折り、堺にあった徳川家康に変事を急報。のちに「神君伊賀越え」と称される家康の三河への脱出行に同行した。この功もあって、茶屋は徳川家の御用商人となる。家康の絶大な信頼と支援を受けて莫大な富を築き、角倉、後藤とともに「京の三長者」と称された。この角倉家の角倉了以(すみのくら-りょうい)は秀吉時代からの豪商で、朱印船貿易を許されていた。また後藤家の後藤庄三郎は茶屋と同じく家康のブレーン商人であり、財政を取り仕切り、初期の徳川幕府を支えた。
家康は京や堺、長崎の商人たちを掌握下に置くことで、徳川幕府を確固たるものにしようとした。これらの商人に対する幕府の圧力は凄まじかったことだろう。堺屋利兵衛も例外ではないはず。治作の心配も無理もないものだったのだ。
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前田利常(まえだ-としつね)
加賀前田家第3代当主。淀殿は、加賀に向かった亡き豊臣秀吉の側室・宰相局(さいしょう-の-つぼね)の一行に名代を随行させ、利常および先代・利長に謁見を求めさせたが断られた(#8)。俊岳は、前田家に召し抱えられていた高山右近の名を使って、明石掃部を誘き出そうとした(#9)。大坂冬の陣において、真田丸と対峙して布陣。真田丸からの挑発に乗り軍令違反の突撃をかけて大敗を喫する(#19)。
蛇足
1594-1658(享年66)。初代・利家(1539?-1599)の四男。母は側室・寿福院。利家は、2002年NHK大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」のモデルとなった人である。秀吉とともに織田信長に仕え、秀吉の治世ではその重臣として百万石の北陸の太守となり、秀吉の嫡子・秀頼の傳人(めのと)でもあった。利家病没後、嫡子・利長(1562-1614)が2代当主となり、関ヶ原の戦いでは東軍として参戦した。しかし、豊臣政権下ではもっとも豊臣家と近く、また大国ゆえに徳川幕府の疑いを受ける。利長はその疑いを解くために、弟・利常の正室として徳川秀忠の息女・子子(ねね)姫(のちに珠姫)を貰い受けると、わずか13歳の利常に家督を譲った(1605年)。ちなみに前田家も、関ヶ原の戦いにおいて利長が東軍、弟・利政が西軍につき、家の存続は図っている。
利常は、大坂の陣に徳川軍として参戦し、真田丸の戦いで惨敗するが、夏の陣では大功を挙げた。戦後は徳川幕府に忠節を尽くしつつ、金沢城下を整備し、国内産業と文化の発展に努めた。家督を譲った4代・光高(1616-1645)が夭逝した後も、嫡孫である幼君・綱紀(つなのり/1643-1724)を後見して、加賀百万石の礎となる名君であったという。
加賀に向かった秀吉の側室・宰相局は生没不詳。宰相殿とも。徳川家康もたいそう側室を持っていたが、秀吉も負けじとたくさんの側室を抱えていた。わかっているだけで、というのは出自の比較的はっきりしている者だけで十数人。出自のわからない者や一夜妻までいれれば…何をか言わんやである。宰相局はそれら側室たちの一人。武家の娘であろうと思われるが、出自はあまりわかっていない。
原作によると、──宰相局は、前田利家の正室・お松の実父・篠原一計(しのはら-かずえ)のいとこ、高畠十三郎の娘で、秀吉の正室・北政所の侍女であったが、たいそうな美女であったために秀吉の側室となった。北政所は、今は身寄りのない彼女に、多少でも縁のある加賀前田家に身を寄せるよう勧めた。この宰相局の加賀行きに、淀殿は名代を随行させ、当主・前田利常、先代・利長に謁見を求めたが、前田家はいろいろと理由を付けて2人に会わせなかった──とある。
淀殿は、徳川家に対抗しうる大名として、前田家を頼もうとしていた。前田家はもともと秀吉のもっとも近しい側近であったから、豊家が立てばいち早く駆けつけるはず、と世情に疎い淀殿は思っていたようだ。しかし、すでに前田家は秀吉と懇意であった利家から代替わりを繰り返し、現当主の正室は将軍・徳川秀忠の息女である。前田家は生き残りをかけて、とっくに豊臣家を見限り、徳川家に付いていたのは周知の事実。知らぬは淀殿ばかりなり、という顛末。
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大久保忠隣(おおくぼ-ただちか)
蛇足
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高山右近(たかやま-うこん)
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徳川秀忠(とくがわ-ひでただ)
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竹千代(たけちよ)
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徳川義直(とくがわ-よしなお)
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豊臣秀頼(とよとみ-ひでより)
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淀殿(よど-どの)
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真田信之(さなだ-まさゆき)
真田幸村の一歳違いの兄。関ヶ原の戦いで父・昌幸、弟・幸村と袂を分かち東軍(徳川氏)につく。戦後、家康に対して父と弟の助命嘆願をする。 大坂冬の陣の後も大坂に留まる幸村の元に、信之からの使者がやって来る。田宮佐古四郎と名乗るその男は実は獅子王院。幸村を徳川軍に迎えたいという家康の意向を伝えるこの使者を幸村は疑い、いろいろとカマをかけるが、獅子王院は巧に交わす。しかし偽者と知りながら捕らえることもせず、悠然と構える幸村に獅子王院は刀を抜くことができなかった。(#21
蛇足
1566-1658(享年93)。従五位下、伊豆守。母は山の手殿(寒松院)。幼名は源三郎、初名は信幸。大坂の陣後、上田から信濃松代に移封される。1656年、次子・信政に家督を譲り隠居。その2年後没。
戦国時代に徳川氏を散々苦しめた真田の家を存続させていくのは、並大抵のことではなかったはずだ。しかしこの人はそれをやり遂げ、真田家は幕末まで存続し、明治には子爵(のちに伯爵)家となる。嫡男でありながら、次男・幸村ばかりに陽が当たり注目を集めることはないが、この人もまた名将といえるだろう。
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毛利勝永(もうり-かつなが)
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宰相局(さいしょう-の-つぼね)
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