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登場人物
「風神の門」の登場人物紹介です。「蛇足」はヒマな方は読んでください(笑)
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霧隠才蔵
 霧隠才蔵 きりがくれ-さいぞう 架空の人物
登場回 ALL 劇中年齢 22-25
生没 天正19年(1591年)-? 享年 -
俳優 三浦浩一 みうら-こういち
生年月日 昭和28年(1953年)12月4日 出演年齢 26 身長 180cm
>>伊賀者 凡例
服部才蔵。伊賀上忍三家のひとつ、服部家の生まれ。関ヶ原の戦いで父を亡くし(当時10才)、以後服部家の下忍・孫八に育てられる。堺仕(さかいし/堺商人のために商業諜報活動をするもの)をしていたが、「なにかでっかいことをして天下に躍り出たい」と上洛。八瀬で謎の女(隠岐殿)に出会ったことから風雲に巻き込まれていく。当初徳川方につくが、真田幸村に魅せられて豊臣方に転じ、徳川家康暗殺を引き受けて猿飛佐助らとともに駿府向かう。二川で獅子王院らの罠に嵌り瀕死の重傷を負うが生還。駿府城の家康の長寿祝いに万歳師に化けて入り込む。しかし暗殺は失敗に終わる。その後、田中城名古屋城でも家康を討つことはできず、やむなく京に戻る。帰京後、幸村を助けて徳川方に様々な妨害工作を仕掛けるなどして活躍し、豊臣方の佐助、お国、隠岐殿らとの信頼関係を深めていく。お国に惹かれていくが、彼女が徳川方の間者だったことを知り驚愕する。が、お国の心情を知り許す。菊亭大納言家の青子(青姫)の行く末について獅子王院と争うが、やがて青子の決意を知り引き下がる。大坂城落城の折り、城に乗り込んでお国を連れだし、のちにともに旅立つ。
蛇足
霧隠才蔵は、破天荒な20代前半の若者忍者である。正義感が強く女性には誰にでも優しい。そして(たぶん)惚れっぽい。劇中の彼の成長は第1回と最終回を見比べると顕著であるが、その一途さは劇中を通して変わらない。これぞと思ったことにはなりふり構わず突っ走ってしまう情熱はドラマを引っ張っていくようだ。
原作「風神の門」の才蔵は、30才前後のニヒルな二枚目として描かれている。父は服部佐衛門尉光春。霧隠は異名であり、他に伊達ノ才蔵、かぶき(異装)ノ才蔵などと呼ばれている。
もともとの霧隠才蔵は、明治末大正初期に刊行された講談本「立川文庫」によって創造された架空の人物。モデルは浅井長政に仕える霧隠弾正左衛門の子、霧隠鹿右衛門。彼は伊賀忍術の百地三太夫に忍術を学び、大坂冬の陣で活躍したといわれているが、この出典がまた「真田三代記」という江戸時代に書かれた歴史小説であり、これまた架空の人物であるようだ。
「立川文庫」により創作された架空の集団「真田十勇士」のひとり。立川文庫第55巻「真田三勇士忍術名人 霧隠才蔵」では、大坂の陣で家康の本陣に忍び込み首を掻こうとして失敗。大坂城落城の折りには幸村の子・大助とともに豊臣秀頼を大坂城より脱出させている。
立川文庫以降、様々な「才蔵」像が作られているが、それらは一部破天荒な設定はあるものの、概ねニヒルな二枚目であり、猿飛佐助の弟分として描かれている。
霧隠才蔵=服部才蔵という図式であるが、どうも「風神の門」以外では見当たらない。一般的に認知されているような気がしたのだが、25年前に刷り込まれたものだったのだろうか。それともまだ探し足りないのか。上記の霧隠才蔵の出自によれば、どうも服部家とは関係なさそうだ。伊賀忍者であるということで服部姓を名乗ることになったのか…。情報求む。
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お国
 お国 おくに 架空の人物
登場回 ALL 劇中年齢 19-22
生没 文禄3年(1594年)-? 享年 -
俳優 小野みゆき おの-みゆき
生年月日 昭和34年(1959年)11月17日 出演年齢 20 身長 169cm
>>徳川 >>徳川忍 凡例
隠岐殿の侍女。実は徳川方の間者。父は徳川の大名で対大坂工作の隠密の長・俊岳は俊岳の父・鳥居元忠の侍女。7才の時、関ヶ原の戦い(伏見城の戦い)において石田三成軍に母を殺され、甲賀者に生駒山中で育てられる。17才で実父・俊岳に再会し徳川方の間者となるが、才蔵の出現で心が揺れ動く。これまで忠実に間者の任務を果たしてきたが、徐々に豊臣方(才蔵)に心が傾いていき、ついには父の元(徳川方)を離れ豊臣方につき、大坂城落城まで隠岐殿に仕える。最後は大坂城を脱出し、才蔵と結ばれる。
※年齢に関して「蘭さん」に情報をいただいた。それによると第19回(慶長19年/1614年)の時点で19才とあるらしい。しかし劇中でお国によって語られた(語らせた)ところによると関ヶ原の戦いがあった1600年に7才であり、第19回の時点では21才である。2つの情報には2才の食い違いがある。どちらを採用するか悩んだ結果、より多くの人に周知されている劇中のセリフを選択した。(蘭さん、せっかく情報をいただいたのにごめんなさい。そしてありがとうございます)
蛇足
小野みゆきもこの頃はまだまだ新人で最初の回は演技がぎこちないが、回を追うごとにうまくなっていく。しかし彼女の魅力はその大きな瞳だろう。
この人はなんでこんなに不幸顔が美しいのだろうと溜め息がでる。笑顔よりも不安顔や泣き顔のほうがいいというのは誉め言葉になるのだろうか。切れ長の大きな瞳に吸い込まれそうになる。
「お国」という役は、幼くして父母と引き離され、見知らぬ他人の中で、おそらくは忍びの術を覚えるしか生きる道がなかったのだろう。やっと実父と再会してもそばにはいられず、間者という任務を引き受けることになる。いつも自分の感情を殺して人の顔色を見て生きてきたのではないだろうか。それしか彼女は生きるすべを知らなかったのだ。そういった背景が「お国」を演じる小野みゆきの瞳に強く映っているようにみえる。才蔵は会って間もない彼女に向かって言う「そなたの瞳(め)は美しいのう。しかしその瞳の光はどうも寂しげだな。なにか身に辛いことでもあるのか」と。
しかし、才蔵の出現でお国の生き方は大きく変わっていく。才蔵はお国にとって今まで出会ってきた誰とも違う未知の男だった。この時代、誰もが誰かにおもねって生きている。大名である彼女の父ですらそうなのだ。しかし才蔵は違った。そして彼女はそんな才蔵に恋心を抱いてしまった。この恋が成就しなければ不幸であったろう。この恋のために彼女はこれまで以上に悩み、苦しむのだ。そしてその大きな瞳をすがるように才蔵に向ける。
苦しみながら彼女の心は次第に変化していく。誰にもおもねることなく自分の思う通りに生きてもいいのではないかと思いはじめる。彼女の瞳は、間者の暗く鋭い光を放つ瞳から強い意志を持った女性の瞳に変わっていく。激しい時代を生き抜くお国のこの美しい瞳は、ドラマの魅力のひとつといえるだろう。
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獅子王院
 獅子王院 ししおういん 架空の人物
登場回 ALL 劇中年齢 22-25
生没 天正19年(1591年)-? 享年 -
俳優 磯部勉 いそべ-つとむ
生年月日 昭和25年(1950年)10月13日 出演年齢 29 身長 173cm
>>徳川 >>徳川忍 凡例
俊岳の子飼いの忍び。伊賀忍者。おそらく下忍の生まれ。幼い頃に妹が餓死。そのため強く出世を望み、侍になるために非情に働こうとし、伊賀上忍の生まれの才蔵に激しいライバル心を燃やす。
俊岳に仕える忍びのリーダー的存在。真田幸村をはじめ大坂方を動向をさぐり、大納言晴季の屋敷から青子の拐かしを図るが、才蔵に阻止される。その後俊岳は才蔵を雇い入れ重用したため、獅子王院は憤りを露わにする。しかし才蔵が幸村に寝返り、猿飛佐助らとともに家康暗殺に旅立つと、獅子王院も俊岳の命を受けて京を発った。旅中の二川で罠を仕掛け、才蔵らの抹殺を図るが失敗。駿府ではなわばりを盾に風魔に阻まれる。その後京に戻り、徳川方の侍大将の暗殺を図る大坂方隠密のアジト相州屋を襲い、隠岐殿を拉致。また分銅屋に働く耳次夫婦を買収し、才蔵に手を貸す伊賀者を殲滅、分銅屋を爆破する。さらに、大坂工作の任を解かれた俊岳を見限り、侍への取り立てをちらつかせる板倉勝重について大坂方を苦しめた。しかし、板倉が獅子王院を取り立てることはなかった。
大納言家の青子と深く関わる。大坂城で青子に「(海が見える)天守閣に連れていってくれ」と言われるが、大坂城から黒屋敷に連れてきた青子には「きらい」と言われる。才蔵を追って駿府に現れた青子を丁重に保護するが、才蔵に奪い去られる。さらに板倉の甘言に乗って、青子を名古屋に連れ出す。この旅で、獅子王院と青子はお互いに相手を思いやるようになり、獅子王院は青子を徳川方には渡さず、才蔵の手に委ねた。
それでも冬の陣の後、青子を須磨へ軟禁する。青子への想いと立身への任務の間で惑いながらも、青子を踏み台にして立身を図る。しかし、侍になることは叶わず、青子を犠牲にしてしまった彼は、一人姿を消す。※記載した年齢は「蘭さん」の情報による。
蛇足
これほど原作と違ったキャラクターに仕立てられた者は、獅子王院の他にはいないだろう。老獪な風魔忍者であった獅子王院は、才蔵と同世代の若い忍びとなって登場する。獅子王院を全編を通じて才蔵のライバルとしたことによって、ドラマは青春群像劇の色を濃くした。最後に人生の伴侶を得た才蔵に対して、獅子王院は立身出世を望むあまり、目の前の大事なものを失う。
幼い頃に大切な妹を失った悲しみと怒りが彼を呪縛し、その心を深い闇に墜とした。使われる側ではなく使う側になれば心の闇は晴れる、彼はそう信じ込んでしまった。そして彼は天才忍者と呼ばれるまでになる。非情な任務は彼を押し上げ、ますます闇は深くなる。しかしそこに一筋の光が射す。彼はある姫君と出会う。それはそれは無邪気な姫に彼は妹を重ね、闇が少し薄れる。おそらく幼い妹にしたであろうと同じように彼は姫に花を摘む。やがてその姫を妹以上に想いはじめている自分に彼は気づく。
一度は姫の幸せを願い、彼はそれを優先する。しかし乱世はそれを許すほど楽観的ではない。再び彼の元に戻ってきた姫は、春日影の野の花のような姫ではなく、暗い夜の闇に繋がれた悲しみの色をした姫だった。姫は、彼の闇が晴れるならとその身を捧げる。しかし、再び彼に光が射すことはなかった。そしてその時初めて、彼は何が彼にとって一番大切であったかを知った。
結果的に、獅子王院は徳川に青子を差し出しただけとなり、彼の野望は無残にもうち砕かれた。しかし、よしんば板倉が獅子王院を召し抱えたとして、それで彼は幸せになれたのか。出世を果たし侍となり、それで彼は満たされただろうか。否や。青子を犠牲にしたことは、ずっと彼の中に痼りとして残ったに違いない。あるいは彼はそれに気づかないフリをして生きていったかもしれないが、それが幸福といえるだろうか。彼は青子を失ってはいけなかったのだ。青子だけが獅子王院の心の闇を晴らす春日影の姫だったのだ。青子の犠牲の上に獅子王院の幸福は成り立たない。
才蔵は、己の信じた道を疑うことなく進んでいく純粋さを持っている。獅子王院の才蔵への憎悪は、彼のように生きることができない自分への憤りだったではないか。明るい夏の日差しの中をお国を伴って行く才蔵の姿を、獅子王院は暗い表情で見送る。彼の傍らに春日影の姫は、いない。
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青子
 青子 あおこ 架空の人物
登場回 ALL 劇中年齢 17-20
生没 慶長元年(1596年)-? 享年 -
俳優 樋口可南子 ひぐち-かなこ
生年月日 昭33年(1958年)12月13日 出演年齢 21 身長 165cm
>>公家 凡例
大納言晴季の三ノ姫(三女)。徳川幕府は公家対策として、晴季に青子を江戸へ上臈として差し出すようにと迫っていたが、大納言家は青子は病と偽り下向を断ってきた。また豊臣方も晴季を味方に付けるべく隠岐殿などが暗躍し、青子の名を騙ったりしていた。ある夜、大納言家に賊が押し入り青子を連れ去ろうとする。それを助けたのが才蔵だった。青子は才蔵に興味を抱き、才蔵もまた公家の姫らしからぬ屈託のない青子に好感を持つ。青子は隠岐殿らによって大坂城に連れ去られるが、そこで彼女の運命を変えるもう一人の男・獅子王院と出会う。その後、青子は才蔵を追い求めて駿府や名古屋への旅に出るが、これらの旅にも獅子王院は深く関わる。そして、獅子王院を知り、人の哀しみを知った青子は、獅子王院のために江戸に下る決意をする。※記載した年齢は「蘭さん」の情報による。
蛇足
原作「風神の門」では『豊臣秀頼と同日(文禄2年8月3日/1593年8月29日)に誕生』とあり、そうなると劇中年齢は20-23才となる。その場合、お国より1つ年上になるのだが…。彼女の大胆無邪気な行動は母が遊び女であった(原作)らしいことが由来しているのか。
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猿飛佐助
 猿飛佐助 さるとび-さすけ 架空の人物
登場回 ALL 劇中年齢 26-29
生没 天正15年(1587年)-慶長20年5月8日(1615年6月4日) 享年 29
俳優 渡辺篤史 わたなべ-あつし
生年月日 昭和22年(1947年)11月28日 出演年齢 32 身長 170cm
>>甲賀者 >>真田 凡例
甲賀忍者。そのリーダー的存在。仲間からの信頼も厚い。忠義や仲間を大切にし、それとは正反対の考え方の才蔵と衝突する。しかし、共に働くうち固い友情で結ばれる。真田幸村に深く傾倒し、彼の命で隠岐殿の警護と隠密工作を行う。京での活動中に遊女・梅ケ枝と出会い、いい仲になる。幸村の命で才蔵とともに徳川家康暗殺のため駿府に赴く。しかし暗殺は失敗し、さらに狙い続けるという才蔵を残し、幸村の命で泣く泣く九度山に戻る。大坂冬の陣では幸村の命に背き、甲賀衆のみで家康のいる茶臼山に奇襲をかけるが、獅子王院の反撃にあい、佐助を残して甲賀衆は全滅。夏の陣では幸村とともに出陣、豊臣秀頼出陣を求めて大坂城に戻っている間に幸村は討死してしまう。そして、大坂城で最後の戦いに赴く隠岐殿を守りながら爆死する。※記載した年齢は「蘭さん」の情報による。
蛇足
赤い顔が目印で、ゆえに会えばすぐ佐助だとわかるらしい。なぜか褌も赤い。醍醐が苦手で、ニオイが嫌いらしく醍醐が出てくると鼻を押さえて逃げ去る。逆に才蔵は醍醐が大好き。殉職した仲間の家族を気づかったり、使えない仲間も見捨てず世話をするなど、この愛すべき三枚目は甲賀衆にとっては頼もしいリーダーである。こんな上司に仕えたいもんだ。そんな佐助は隠岐殿を密かに想っている。閑古堂の小若にも気があり、櫛を贈ったりしている。本来真面目な人物のようだが、大坂に引き入れるべく才蔵を遊女屋に訪ねたときに廓遊びを覚えた模様。そこで隠岐殿に似た遊女・梅ケ枝と知り合い、ちょくちょく通うようになる。室町に相州屋を開いた時には梅ケ枝(と桂木)を引き抜く(それが失敗の元…)。そして大坂城に入る際も連れていった。決戦の前夜には、自分が死んだ後の梅ケ枝のことを心配するなど、梅ケ枝のことを本気で想うようになっていた。願わくば、生きて戻り梅ケ枝と甲賀の里で幸せに暮らしてほしかった。
原作では、佐助の本名は三雲佐助賢春(みくも-さすけ-よしはる)。甲賀五十三家といわれた近江国郷士、三雲新佐衛門賢持(みくも-しんざえもん-よしもち)の孫。父・新太夫賢方(しんだゆう-よしかた)の代に主家が滅ぼされ、父子は山林に隠れた。賢方は佐助の兄2人は忍びとして大名に仕えさせ、末子佐助は手許におき修行を積ませた。佐助は父の死後、甲賀の山を下りて豊臣家に仕える。年齢は30才過ぎの設定。
猿飛佐助もまた霧隠才蔵と同様、明治末大正初期に刊行された講談本「立川文庫」によって創造された架空の人物。モデルは伊賀の忍術書「万川集海」に登場する下柘植ノ木猿(しもつげの-きざる)と云われている。伊賀の忍術十一名人のひとりで、本名は上月佐助(こうづき-さすけ)。もともとは伊賀忍者であった者がどういうわけか甲賀忍者の代表選手になってしまった。
「立川文庫」の猿飛佐助もやはり「真田十勇士」のひとり。同文庫では、佐助は信州鳥居峠の麓に住む郷士・鷲尾佐太夫の息子。甲賀忍者の戸沢白雲斎の教えを受けて免許皆伝となる。15才の時、鳥居峠に猪狩りに訪れた幸村とめぐり合い、その郎党となった。
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隠岐殿
 隠岐殿 おき-どの 架空の人物
登場回 #1,2,3,4,5,6,7,8,9,13,14,16,17,18,19,20,21,22,23 劇中年齢 不明
生没 ?-慶長20年5月8日(1615年6月4日) 享年 不明
俳優 多岐川裕美 たきがわ-ゆみ
生年月日 昭和26年(1951年)2月26日 出演年齢 28 身長 162cm
>>豊臣 凡例
大坂城中臈。名はみつ。母は大蔵卿局。兄は大野修理。対徳川工作の隠密の長として京、大坂を中心に猿飛佐助らを使って数々の謀略や牢人への協力要請を行う。美しくしかも強い。キリシタン。真田幸村を密かに慕っている。
蛇足
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真田幸村
 真田幸村 さなだ-ゆきむら 実在の人物
登場回 #1,2,4,5,6,7,8,9,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22 劇中年齢 46-49
生没 永禄10年(1567年)-慶長20年5月7日(1615年6月3日) 享年 49
俳優 竹脇無我 たけわき-むが
生年月日 昭和19年(1944年)2月17日 出演年齢 35 身長 173cm
>>真田 凡例
真田信繁(のぶしげ/「幸村」は後の創作による架空の名とされている)。官位は従五位下、左衛門佐(さえもんのすけ)。九度山で入道して伝心月叟(でんしんげっそう)と号す。信濃上田城城主、真田昌幸の次男として誕生。兄・信之とは一歳違い。母は山の手殿(寒松院)。俊岳をして「義経にも匹敵する名将」と言わしめ、才蔵をも傾倒させる人物。
もともと真田氏は武田氏に仕えていたが、戦国武将の誰もがそうであるように、真田幸村も紆余曲折の末、関ヶ原の戦いで父・昌幸とともに西軍(豊臣氏)に味方し、敗将となる。そして兄・信之が東軍(徳川氏)だったため、嘆願により紀州・九度山に配流となった。
九度山では真田屋敷(真田庵)に居を置き、蟄居中とはいいながら、必ず再戦ありと見て諜報活動をかかさず、佐助たち甲賀者を「真田紐」の行商などとして各地に飛ばし、また自らもお忍びで京、大坂に出たりしている。東西の緊張が高まってくると大坂城中臈隠岐殿が訪れるなど、身辺が騒がしくなる。才蔵はこの時、幸村暗殺を目的に九度山に入った。しかし幸村の人柄に惹かれ、彼のために働こうと決心する。そして幸村は才蔵と佐助に徳川家康暗殺を託す。しかし暗殺は失敗に終わり、やがて東西決裂となる。ついに大坂城の大野修理からの入城要請を受けた幸村は、闇に乗して九度山と退去。大坂城に入ると、その弱点であった三の丸南側、平野口の外に「真田丸」と呼ばれる出城を築く。そして大坂冬の陣。幸村は才蔵と佐助を使い、伊賀・甲賀の幻術によって徳川軍2万を真田丸に前に誘き出させ、多くの死傷者を出させて敗走させる。この戦いによって、一躍真田丸と幸村の名が、敵味方を問わず高まった。しかし、幸村や武将たちの奮戦を無にするかのように、一発の砲弾により戦いは和議となる。そして大坂城の濠は本丸を残して埋め立てられ、幸村たちは裸城となった大坂城で夏の陣を迎える。既に篭城はならず、各将たちが出陣、討死していく中、幸村は毛利勝永らと徳川軍を真正面から攻めて敵をひきつけ、遊軍の明石掃部軍が家康本隊を攻撃する策をたてる。幸村は徳川軍の真っ只中を突っ切って家康の本陣を襲う。そのあまりの凄まじさに家康はじめ側近の武将たちは逃げるように本陣を出、家康は切腹を覚悟したという。しかし総大将・豊臣秀頼の出馬ならず、奮闘虚しく安居天神にて西尾久作に首をかかれた。
蛇足
「幸村」とは、後世の読み物や講談、史書に使われた名である。信繁(幸村)が生前に「幸村」と名乗ったり、署名をしたという記録はないと云う。ここでは幸村=信繁として、史実を基に記述する。
幸村の父・昌幸は真田幸隆の三男であったため、真田家の家督は兄が継ぎ、彼は武藤喜兵衛昌幸と名乗っていた。その頃の幸村は幼名を弁丸といった(のちに元服して源次郎信繁)。しかし長篠の戦い(天正3年/1575年)で昌幸の兄2人が討死し、昌幸、信幸、幸村は真田姓に復する。昌幸は武田氏滅亡後、お家存続のため織田信長、上杉景勝、北条氏直、徳川家康と次々主家を変えた。しかし家康が北条氏との和睦の条件に真田の所領である沼田を差し出せと昌幸に命じ、昌幸が「沼田はわが父祖伝来の土地」として拒否したことから神川合戦(天正13年/1585年)となる。家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを将として7千人を動員して昌幸のいる上田城を囲んだ。この徳川方の大将の一人・鳥居元忠は俊岳(鳥居忠政)の父である。昌幸はこれを戦略をもって、わずか千人にも満たない兵力で撃退し、この戦いによって真田昌幸の武名は天下に轟いた。 この時幸村は、徳川に対して上杉氏の後ろ盾を得るために、人質として上杉景勝の元へ送られていた。その後、昌幸は豊臣秀吉に従い、幸村は豊臣の人質となる。そして秀吉の死後、石田三成が挙兵すると真田家は東西2つに別れることになる。妻が家康の側近・本多忠勝の娘である信幸は東軍に、石田三成と姻戚関係にあった昌幸は西軍に味方した。幸村は昌幸に付いた。兄が東軍に付いたため、真田家存続を考えれば当然西軍につくべきところであろうし、また幸村の舅・大谷吉継が西軍であった。(さらに豊臣秀次の娘を側室としていた。余談だが、秀次の正室は大納言晴季の娘である。つまりこの側室は晴季の孫娘という可能性がある)彼らはそれぞれの立場やお家存続を思い、合意の上で東西に別れたのだ。そして関ヶ原の戦いとなり、昌幸・幸村は中山道を行く徳川秀忠軍を一手に引き受け、上田城で迎え撃って敗走させる(上田合戦)。秀忠はこの敗戦に加えて、関ヶ原の戦いにも間に合わず、父・家康にこっぴどく「叱られた」らしい。合戦には勝利したが、西軍が負けてしまったため敗将となった昌幸・幸村は、九度山配流となる。真田親子に散々な目に会わされた秀忠は2人の斬首を叫んだが、信幸(この時、徳川忠誠の証として真田の通字である「幸」の字を捨て「信之」と改名)と信幸の舅で徳川四天王の一人である本多忠勝などの必死の嘆願により蟄居となったのだ。しかし、秀忠の怒りが尋常ではなかったのか、家康が昌幸の武将としての才を恐れたのか、同じ敗将として蟄居を命じられた大名が赦されていく中、彼らだけは罷免されることなく、昌幸は慶長16年(1611年)に病没する。そして3年後の慶長19年(1614年)、幸村は大坂城に迎えられるのである。
真田は忍びを用いる─と後世に強く印象づけられているが、それは幸村の祖父・幸隆の時代から布石があったようだ。武田氏に仕えていた時代に幸隆は諜報、謀略を得意として働いていたらしい。昌幸の神川合戦や上田合戦、幸村の大坂の陣での真田丸の建設や戦いぶりは、全体の情勢と敵方の詳細な動きの把握、つまり諜報によって戦略・策略を立て勝利に導いたところが大きいといえるだろう。しかし、これら諜報活動に忍びを使ったという確たる証拠はない(※)。真田の郎党がそれらのまねごとをしたとも考えられるが、後世に残る物語にはロマンが入り込むものである。江戸時代から今日まで、真田十勇士をはじめとする様々な真田氏と忍びを結びつけた逸話や物語があるのは、あるいは日本人の好きな悲劇(影)のヒーローを結びつけた結果なのかもしれない。
劇中、幸村は家康の考え方、側近の動き、大坂を包囲する大名の動きなど、様々な情報を才蔵や大坂の人々に告げている。これらは幸村が各方面に佐助たち忍びを飛ばし、真田屋敷や大坂城にいながらにして情報を得ていたからに他ならない。大坂の陣の頃の大坂城内は、2人に1人は徳川に内応していると云われるくらい多く内応者が出ていたし、入り込んでいた。家康もまた諜報活動には重点を置き、それらからもたらされる情報によって時期をさぐり、謀略を企てていた。家康には数多くの内応者がいた。しかし幸村にはそんなものなどいるはずもない。彼は彼の組織とその人望によって、敵陣はもちろん大坂城内の動きをも手に取るように把握していたのだ。もしかしたら幸村は、お国が間者だと気づいていたのかもしれない。いや気づいていたとみる方がこの際自然であろう。幸村の兄・信之は、弟を「左衛門佐はものごと柔和忍辱、物静かで言葉少なく、怒り腹立つことがなかった」と語ったと伝えられている。九度山の幸村は、山羊の乳をしぼり醍醐作りに精を出す。または村の子どもといっしょに畑仕事をしたりしている。果ては外国のいろいろな醍醐(チーズ)の作り方を学びたいから交易を許す豊臣に付くのだなどという始末。しかしその裏では時々刻々と変わる情勢を正確に把握し、己の動く時期を見据えていたのだ。決して自分からは事を起こさず相手の出方を見る、それが幸村のやり方だったのかもしれない。
話は変わるが、ここにおもしろい話がある。幸村の母・山の手殿の出自は、菊亭大納言晴季の娘、正親町実彦の姪(娘)、宇田下野守頼忠の娘、信玄の養女など諸説ある。もし山の手殿が菊亭大納言晴季の娘であるならば、青子と幸村は叔母・甥の関係になる。青子が大坂城に入り幸村と出会ったなら、幸村はこの愛らしくもトラブルメーカーな叔母にどう接しただろうか。見てみたいものである。
※真田家の家臣などが残した史料によると、真田家では確かに忍び軍団を抱えていたようだ。聖徳太子の世から戦国期、江戸期まで、真田家だけではなく多くの大名家が忍びを召し抱えていた。忍びは諜報や謀略だけでなく、その技を生かして戦場を駆け、味方に勝利をもたらし恩賞を得ていたという。
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俊岳
 俊岳 しゅんがく 実在の人物
登場回 #3,4,5,6,7,8,9,14,15,16,17,18,19,21 劇中年齢 47-50
生没 永禄9年(1566年)-寛永5年9月5日(1628年10月2日) 享年 63
俳優 佐藤慶 さとう-けい
生年月日 昭和3年(1928年)12月21日 出演年齢 51 身長 165cm
>>徳川 >>徳川忍 凡例
鳥居忠政。大名。官位は従五位下・左京亮。江戸方の対大坂工作の隠密の長。父・元忠の侍女に手をつけ、お国を産ませた。
忍びの者・獅子王院を使う一方、娘・お国を大坂城へ間者として送り込む。子飼いの甲賀者の裏切りで父が討死したため、鳥居家では忍びは使わずとの家訓があるが、陰で大坂工作をする上で必要と個人的家来として獅子王院らを使う。忍びは毒であるといい、また実娘を間者とする非情さを持ちながらも、敵方の才蔵になびいたお国を許す親馬鹿ぶりも発揮。お家のために政策の合わない京都所司代板倉に従わなければならないなど、中間管理職の悲哀もある。
蛇足
父の元忠が伏見城攻防戦で討死したため、その家督を継ぐ。関ケ原の戦い後にその戦功によって陸奥磐城平に十万石を与えられる。奥羽に徳川支配の拠点を確立して、東北を支配する体制を整えた。
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凡例 マークの解説
実在の人物 歴史上実在の人物
架空の人物 歴史上存在しない架空の人物
登場回 登場する回("ALL"は全話に登場)
劇中年齢 劇中の慶長17年(1612年)-慶長20年(1615年)の年齢を「数え年」で明記。日本では1902年まで「数え年」が使われていた。「数え年」とは生まれた時を1歳として、元旦を迎えると1つ年をとる年齢の数え方。劇中において判明した者と実在の人物でわかる者を明記。わからないものは「不明」とした。
生没年 生年月日と没年月日。劇中において判明した者と実在の人物でわかる者を明記。月日がわからない者は年のみ記入。生没年月日がわからないものは「不明」とし、どちらか一方がわからないものは「?」とした。
享年 死亡時の年齢。数え年で明記。劇中において判明した者と実在の人物でわかる者を明記。没年が不明な場合は「-」、それ以外は「不明」とした。
俳優 登場人物を演じた俳優
生年月日 俳優の生年月日。わからない場合は空欄とした。情報求む。
出演年齢 撮影当時の俳優の年齢。1980年1月1日時点とし、わからない場合は空欄とした。
身長 俳優の身長。(調べたのは2005年だが1980年当時とたぶん変わっていないと思う) わからない場合は空欄とした。
蛇足 管理人の勝手な解説。かなり偏ってると思われるので読み飛ばしましょう(笑)
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