登場人物
「風神の門」の登場人物紹介です。「蛇足」はヒマな方は読んでください(笑)
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板倉勝重 いたくら-かつしげ
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#4,6,8,9,11,14,15,16,17,19,21,22,23
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68-71
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天文14年(1545年)-寛永元年(1624年)
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80
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寺田農 てらだ-みのり
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昭和17年(1942年)11月7日
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37
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173cm
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京都所司代。伊賀守。豊臣家や公家に対しての監視および交渉役。駿府の 家康や 本多正純の意を受けてさまざまな謀略を直接指揮する。 大納言晴季に 青子の下向を迫り、 方広寺焼失や鐘銘文事件、 明石掃部の誘き出し、 隠岐殿誘拐、 大坂城の濠埋め立て、 幸村内応の流言など、ほぼすべての陰謀の黒幕。家康の長寿祝いの宴では直前に宴の間を変更し、 才蔵たちを窮地に追い込んだ。開戦後、江戸留守居となる 俊岳から主を乗り替えた 獅子王院を使うが、その功に報いずうち捨てる。

徳川家譜代の家臣である板倉好重の次男として、三河国額田郡小美村(愛知県岡崎市)に生まれる。幼少の頃に出家して浄土真宗の永安寺の僧・香誉宗哲(こうよそうてつ)となるも、父や家督を継いだ弟の討死により天正9年(1581年)還俗して家督を相続。僧あがりの勝重は戦働きはほとんどせず、施政面で活躍する。駿河町奉行・関東代官・江戸町奉行を歴任後、慶長6年(1601年)に京都町奉行・京都所司代に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに豊臣家と西国大名の監視に当たる。大坂の陣では方広寺鐘銘文事件に一役買い、大坂城に小幡景憲(勘兵衛)らの間者を放つ。大坂の内応者の情報の多くは勝重から駿府へ送られた。真田幸村に対する「東の諜報家」。京都という大坂方の陣地内ともいえる場所で知謀と諜報を巡らし、徳川方の勝利に大いに貢献した。元和6年(1620年)に子の重宗に京都所司代の職を譲るが、その後も京に残り重宗を補佐した。
劇中ではラスボス的な勝重であるが、実際は元僧侶であったためか、無欲公正で所司代としての評判は高く、多くの逸話が残されている。名奉行・大岡越前のエピソードの一部は実際には板倉勝重のものだと云われるものもあるほどだ。弾圧するべきキリシタンにも人道的な処置を取った。キリシタンの女を助けて役人を蹴散らした才蔵は、普通なら鞭打ちの20や30はくらいそうだが、お咎めなしの放免とは勝重の寛大さによるものか。本来世襲制ではない京都所司代の後任を子の重宗が嗣ぎ、立派に職務を果たしている。
とはいえ、風神の門では立派なラスボス。史実では70歳前後であった勝重は、寺田農によって壮年のダーティーな悪役として描かれている。その仕業に敵味方を問わず煮湯を飲まされた者数知れず。初登場の超尊大な態度は忘れがたい。また俊岳に対して「幸村を事前に殺せなかった、それが悔いといえば悔いでございましょうのう」というセリフには、日本中から「お前が放っておけってゆーたやん!」というツッコミがあったはず。全国に支部を持つ「獅子王院同盟」からは刺客が放たれたという噂もある(噂です)。しかし、主人公と直接顔を合わせないラスボスもめずらしい。というか主人公はこのラスボスから直接は被害を受けていない。青子を持ってかれたことと、嫁さんの父親が苛められたくらいか。豊臣恩顧の者にとってはまさに刺客を放ちたいくらいだろうが、才蔵は幸村に心服して大坂に付いただけなのでたいして恨みはないのか。もっとも板倉の方は才蔵に「存念」があるらしいので、しばらくは京都に近づかないのが無難…。
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徳川家康 とくがわ-いえやす
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#11,14,15
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70-73
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天文11年12月26日(1543年1月31日)-元和2年4月17日(1616年6月1日)
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75
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入江正夫 いりえ-まさお
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江戸幕府の開祖。関ヶ原の戦いで石田光成軍を敗り、征夷大将軍になる。慶長10年(1605年)に息子の 秀忠に将軍職を譲り、自らは「大御所」として二元政治を行い、徳川政権安泰のために豊臣家を潰そうとする。 才蔵は 幸村の命で家康暗殺のために駿府へ赴くが失敗。その後、 田中城、 名古屋城でも試みるがことごとく失敗する。
戦国時代に三河の小大名として生まれ、幼年を尾張、駿府で人質として過ごす。桶狭間の戦い後、織田信長と結び三河国を統一。信長の死後、秀吉に従い五大老筆頭となるが、秀吉の死後、関が原の戦いで石田三成に勝利し、事実上政権を執る。
家康は戦略家でもあるが、謀略家としての悪名が高い。秀吉の死以降大坂の陣までの間には、多くの謀略に長けた側近たちを用い豊臣家を滅ぼそうとした。徳川家繁栄のためには手段を選ばなかった家康だが、自家のためだけに豊臣家を滅ぼしたのではないようだ。大坂の陣の翌年、家康は死去するが、彼は以下のような遺言を残している。
わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民艱難することあらんには たれにても其の任に代らるべし 天下は一人の天下にあらず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らば もとより家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし 元和2年(1616)
──もはや我が命は終わりに近づいたが、将軍(秀忠)が立派に政道を行っているので天下のことは心配ない。しかし、将軍の政道が道を外れ、万民が苦しむことになるようなことがあれば、誰にでもその座を代えるがよい。天下は(将軍)一人のための天下ではない。天下は万民のための天下である。たとえ誰が天下を治めようとも、四海安穏であり万人が幸せであるのなら、もとより家康の望むところであり、いささかも恨みに思うことはない。
入江正夫(現在は、入江英義)は、劇中第15回で家康を演じているが、第11回で侍、第14回で影武者を演じている。おそらく第11回は顔の映らない家康、第14回の影武者は才蔵に殺された役であろう。とすると才蔵が殺したのは影武者…???
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