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登場人物
「風神の門」の登場人物紹介です。「蛇足」はヒマな方は読んでください(笑)
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後藤又兵衛
 後藤又兵衛 ごとう-またべえ 実在の人物
登場回 #4,16,19,22,23 劇中年齢 53-56
生没 永禄3年4月10日(1560年5月5日)-元和元年5月6日(1615年6月2日) 享年 56
俳優 大木実 おおき-みのる 出演年齢 56 身長  
生年月日 大正12年(1923年)12月16日 凡例
元・黒田長政(筑前国福岡藩)の家臣。謀反の疑いを受け、牢人となり京の六条河原で暮らす。才蔵俊岳から又兵衛ら京の牢人を斬るよう指令を受けるが、又兵衛の豪放磊落な性格は才蔵や佐助の慕うところとなる。慶長19年秋、大野修理の招きを受け、大坂城へ。真田幸村とともに積極的な戦略を唱えるが、修理に退けられる。夏の陣では自身が建策した戦術を修理の建策とされてしまう。出陣当日、大和口迎撃の前衛であった又兵衛は、徳川軍がすでに大和口を越えてしまったのを知り、後衛を待たずに仕掛け、討死にする。又兵衛は才蔵を自分の片腕にしたいと思うほどかわいがっており、才蔵はその死に出陣を決意する。
蛇足
後藤又兵衛基次(もとつぐ)。播磨の別所氏の家臣・後藤基国の次男。「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人。「槍の又兵衛」。数々の武功を立てた又兵衛の体には53個所の傷痕があったという。
幼くして父を亡くした又兵衛は、主君の黒田孝高(官兵衛、如水)に養育され、その子・長政に仕えた。一時、黒田家を追放されるが許されて帰参し、九州の陣(天正15年/1587年)、文禄の役(文禄元年/1592年)、慶長の役(慶長2年/1597年)、関ケ原の戦い(慶長5年/1600年、この時は東軍に与す)などを歴戦。数々の武功を立て勇名を馳せた。主君・長政に「我が右腕」とまで言われ、筑前大隈城と1万6千石を領する。しかし後に長政と不和となり、黒田家を出奔。いくつもの大名から誘いを受けるが、長政の「奉公構え(仕官妨害)」を受け、京で牢人となる。その後、豊臣秀頼(大野修理)に招かれて大坂城に入り、真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝久、明石全登(掃部)とともに「大坂城五人衆」と呼ばれることとなる。又兵衛が豊臣の誘いを受けた時、同時に徳川からもかなりの厚遇で誘いがあった、という話がある。この時又兵衛は「(味方の少ない豊臣の方が)働きがいがある」と云い、豊臣についたと云われている。大坂夏の陣・道明寺の戦いにおいて奮戦するも圧倒的な兵の差についに倒れ、玉手山で家臣に首をとって地中に埋めるように命じ、自刃した。忠義を重んじ武勇に秀でた又兵衛は多く配下に深く慕われており、又兵衛の死を知ると敵に突撃し討死する者が続出したという。
又兵衛の討死は間違いないところのようだが、奈良県宇陀郡大宇陀町には又兵衛がこの地へ落ちのび、僧侶となって一生を終えたという伝説が残っており、後藤家の屋敷跡という場所には「又兵衛桜」という樹齢300年のみごとなしだれ桜がある。この「又兵衛桜」は平成12年(2000年)のNHK大河ドラマ「葵・徳川三代」のオープニングに登場する。どういう経緯でこの桜が採用されたのかは知らないが、最後まで家康を苦しめた大坂城五人衆の武将の名のついた桜を、徳川の世の基礎を築いた将軍の物語のオープニングに使うとは、なんとも皮肉な演出である。
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東田市之介
 東田市之介 ひがしだ-いちのすけ 架空の人物
登場回 #4,5,6,7,8,14,15,16,19,20,21 劇中年齢 不明
生没 ?-慶長20年1月(1615年2月) 享年 不明
俳優 辻萬長 つじ-かずなが 出演年齢 35 身長 172cm
生年月日 昭和19年(1944年)2月9日 凡例
大野修理の近侍。大坂城に連れてこられた青子の公家の姫らしからぬ様子に「本物か」と疑う真面目な人。修理の代理で九度山真田幸村秀頼の御教書を伝えた。修理の言動に絶対的に従っていたが、幸村や後藤又兵衛の骨柄や叡智に触れ、次第に修理一辺倒ではなくなっていく。それが災いして、徳川方に内通する青木民部の幸村讒訴に耳を傾ける修理を誅せんとして、自害することとなる。
蛇足
若さゆえか、ストレートな物言いしかできず、修理を諫めるには自らの命をかけるしか術をもたなかった市之介。おそらく幼い頃から修理や隠岐殿とともに育ち、大坂城という狭い世界しか知らず、主をひたすら補佐してきたのだろう。崇拝とはいかないまでも、主の言うことはすべて正しい、という刷り込みはあったかもしれない。それが幸村や又兵衛など武将としてはもちろん、人として優れた人々に触れることによって揺らいできたようにみえる。修理は、常に自分とともにあり、いつも彼に従ってきた市之介の死にかなりのダメージを受け、多少暴走は止まるが、時すでに遅し…。
と、ここまで市之介は修理より年下とみて書いている。だから役職も「近侍」とした。が、年齢不祥であるからそうとは限らない。原作では幸村に秀頼の御教書を伝えたのは米村権右衛門、大野修理の家老だ。では市之介は修理の家老だろうか。役者のチョイス(年齢)もさることながら、言動、徳川の動きを九度山まで伝えに行くフットワークの軽さなど、とても家老とは思えない。近侍あたりが妥当ではないか。市之介が修理の近侍なら、秀頼の使者として真田幸村ほどの武将を招くにあたっては、力不足であることは否めない。ドラマのすべてにドキュメンタリィなみのリアリティを求めるのはナンセンスだが、ちと気になる。
辻萬長は三浦浩一、小野みゆきが出演している「野々村病院物語」にも出演。夫人の名前が「くに」さんというらしい。
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増田盛次
 増田盛次 ました-もりつぐ 実在の人物
登場回 #4 劇中年齢 不明
生没 ?-慶長20年(1615年) 享年 不明
俳優 伊藤高 いとう-たかし 出演年齢 31 身長  
生年月日 昭和23年(1948年)12月2日 凡例
大和郡山20万石の領主・増田長盛の子。関ヶ原の戦いで長盛が西軍に与して改易されたのに伴って牢人となり、京の四条堀川で染物屋を営む。
蛇足
兵部大輔(ひょうぶのたいふ)。父・長盛(1545-1615)は尾張または近江の出身とされており、秀吉の古参の家臣。豊臣政権では五奉行(政権の実務を担う5人の吏僚。浅野長政、石田三成、前田玄以、長束正家)を務めた。関ヶ原の戦いでは西軍に与するも家康に内通。戦後一命を安堵され配流となる。
盛次は長盛が所領を没収されたため牢人となる。その後徳川義直に仕え、大坂冬の陣では徳川方として参戦。しかし夏の陣ではなぜか大坂城に入り、長宗我部盛親に従って八尾の戦いで藤堂高虎軍と戦い討死。長盛も盛次が豊臣方についたため、戦後自害した。
又兵衛、治作あたりと同等のキャラなのかなと思ったら1回のみのご出演でした。この後てっきり大坂城に入ったんだと思っていたら、(史実では)名古屋城の徳川義直のところに行っちゃったらしい。名古屋城大爆破のときには城内にいたんじゃないだろうか。そして謎の大坂方への寝返り。豊臣→徳川に寝返った人はいても、逆はこの人くらいでは?(と思ったら後藤又兵衛がいた。こっちは理由はハッキリしているが)一説には、寝返りは父・長盛が秀吉に受けた恩をかえすためだったと云われている。もともとは秀吉の家臣であった増田家、だとすると徳川に仕えたのはしかたなくのことだったか。父の命を助けてくれた家康の恩に報いるために一度だけ戦働きをしたということか。冬の陣では撤退する長宗我部盛親軍の殿(しんがり)を務め、見事に討死した。また、徳川方の大名に預けられている父のために武名を明らかにしなかったとも云われている。実はけっこう漢だったのか、増田盛次。
しかし、なんでここでこの人なんでしょう、よりによってこんな波瀾万丈な大坂の陣を生きた人を。原作では盛次の他に京近辺で牢人していたのは、塙団右衛門(ばん-だんえもん)、長宗我部盛親、仙石宗也、大谷大学吉胤(よしたね)、平塚佐馬助などがいる。もうちょっと普通(?)の人でもよかったような。染物屋が絵にしやすかったのか。
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明石掃部
 明石掃部 あかし-かもん 実在の人物
登場回 #5,9,19,22 劇中年齢 47-50?
生没 永禄9年(1566年)?-元和4年(1618年)? 享年 53?
俳優 竜崎勝 りゅうざき-かつ 出演年齢 39 身長 177cm
生年月日 昭和15年(1940年)3月25日 凡例
明石全登(あかし-たけのり)。掃部は官位(掃部頭/かもんのかみ)。生没年は不詳とも云われる。キリシタン。洗礼名はジュアニー。備前・宇喜多家々臣。宇喜多秀家に従い関ヶ原の戦いに参戦。西軍として敗れ、落ち延びて牢人となり西国や九州に潜伏した。徳川家がキリシタンの弾圧を強める中、キリシタンを認めると約する豊臣家に味方する。掃部の号令一下で諸国の数千のキリシタン牢人が動き、ポルトガルやイスパニア(スペイン)も力を貸すという。掃部の力を恐れた徳川方は、高山右近の名を騙って彼を誘き出そうとした。大坂夏の陣、真田幸村毛利勝永とともに家康の本営を攻める作戦を起案。才蔵は明石軍に同行する。しかし合図である秀頼出馬が見送られ作戦は瓦解、明石軍は戦場を離脱する。
蛇足
全登はてるずみ、ぜんとう、なりとよ、とも読まれる。洗礼名はジョアニー、ジョアン、ジョバンニ、ジュスト、ヨハネ、とも。大坂城五人衆のひとり。
豊臣秀吉の寵愛を受け、若干18歳で五大老の一人となった宇喜多秀家の家臣。慶長4年(1599年)の「宇喜多騒動」後、家老を務める。翌年の関ケ原の戦いでは宇喜多勢を率いて福島正則と激戦を展開。しかし敗色が強まると秀家を戦場から落とし、自らも黒田長政を頼って筑前に落ち延びた。その後、秀家は八丈島へ配流、全登は黒田家を離れ西国や九州に潜伏する。慶長19年(1614年)キリシタン牢人を率いて大坂城に入城。その条件は、キリスト教の信仰の自由と主君・秀家の解放だった。
大坂の陣後の全登の消息は不明。討死したとも、落ち延びたとも、南蛮へ亡命ともさまざまな説がある。家康は全登の元に再びキリシタンが集結するのを恐れ「明石狩り」まで行っているが、その行方はとうとうしれなかった。
秀吉の伴天連追放令以降、多くのキリシタン大名が改易、もしくは棄教し、棄教を拒んだものは追放や殉死した。そんな中で最後まで抵抗したのが明石全登だった。「明石狩り」が行われたほどの人望と勇名のあった全登は、徳川に弾圧されるキリシタンの盟主的存在だった。また若き主君・宇喜多秀家の救出にも苦心していた。関ヶ原以降は牢人であったので、南蛮へ亡命することも可能であったろうが、その2つの望みをかなえるため、大坂方についたのだろう。 関ヶ原の戦いの後、全登が身を寄せていた筑前の黒田家には後藤又兵衛がいた。その後2人はそれぞれ黒田家を離れ、紆余曲折の末、大坂城で合流することとなる。
竜崎勝は、昭和58年(1983年)に大河ドラマ「徳川家康」、水曜時代劇「壬生の恋歌」、昭和59年大河ドラマ「山河燃ゆ」に続けて出演するも、同59年12月18日病没、享年44。

大野修理
 大野修理 おおの-しゅり 実在の人物
登場回 #8,14,15,16,19,20,21,22,23 劇中年齢 44-47
生没 永禄12年(1569年)-慶長20年5月8日(1615年)6月4日 享年 47
俳優 伊丹十三 いたみ-じゅうぞう 出演年齢 46 身長  
生年月日 昭和8年(1933年)5月15日 凡例
蛇足
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大蔵卿局
 大蔵卿局 おおくらきょう-の-つぼね 実在の人物
登場回 #19,20,21,22,23 劇中年齢 不明
生没 ?-慶長20年5月8日(1615年)6月4日 享年 不明
俳優 初井言榮 はつい-ことえ 出演年齢 50 身長  
生年月日 昭和4年(1929年)1月8日 凡例
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青木民部
 青木民部 あおき-みんぶ 実在の人物
登場回 #19,21,22 劇中年齢 60-62
生没 天文20年(1551年)-寛永5年8月9日(1628年9月6日) 享年 78
俳優 久世龍之介 くぜ-りゅうのすけ 出演年齢   身長  
生年月日   凡例
蛇足
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八重 八重 やえ  架空 
登場回 #1,4,5,6,7
俳優 村田知嘉子 むらた-ちかこ 
隠岐殿の侍女
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楓  かえで  架空 
登場回 #1,2
俳優 向田由美子 むこうだ-ゆみこ 
隠岐殿の侍女
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凡例


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