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用語集
ドラマに登場するさまざまなことばを集めて勝手に解説しています。
  • その他

京都所司代(きょうと-しょしだい)
板倉勝重の役職。徳川幕府における老中(将軍に直属して国政を統轄)につぐ最重要役職。朝廷対策、京都の治安維持、および豊臣家の監視を担う。
蛇足
室町幕府から始まり、幕末に廃止された。徳川期には譜代大名(関ヶ原の戦い以前から徳川氏の家臣であった大名)から任命された重要な地位。上記任務の他に、畿内8ヶ国の訴訟処理、西国33ヶ国の動静監視など、江戸幕府の目の届かない西日本を管掌した。幕末動乱期には所司代の上に京都守護職が最高機構として置かれた。
俊岳は「のちのち老中職にまで昇られる所司代には逆らえん」といっているが、板倉勝重は老中にはならなかった。あまりにも所司代として才腕を振るったためか、歴代2位の18年(1601-1619)の奉職期間を過ごし、退官後も後任を補佐し4年で没した。ちなみに奉職期間1位は勝重の後任の板倉重宗の35年(1619-1654)。また京都所司代から最初に老中に昇ったのは板倉重矩(勝重の孫、勝重から数えて4代目)。もっとも重矩はもともと老中職にありながら京都所司代に転じ、2年で老中に返り咲いた。京都所司代歴代60余人のうち、約6割が老中に昇った。
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中臈(ちゅうろう)
隠岐殿の大坂・右大臣家での役職。右大臣家とは豊臣家のこと。つまり淀殿の侍女。
蛇足
後宮などに仕えた女官の職名。位の高い順に大上臈→小上臈→中臈→下臈。上臈以上は公家の息女でないとなれないらしい。 ちなみに豊臣家は武家であるが、秀吉亡き後は淀殿によって秀頼、淀殿の周辺は万事公家風に仕切られていたようだ。 また、江戸時代になると大奥の女官のことを指すようになる。上臈年寄の下に位するもので、時には将軍の寝所にも入り世継ぎを生むこともあった。
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市
(いち)
いろいろなところで働いている伊賀者の情報交換の集まり。伊賀者以外は誰も入れない。才蔵隠岐殿の素性を知り、大坂城での地位などの情報を市に求めた(#2)。また、大坂方に連れ去られた青子の行方を調べさせる(#5)。相州屋から連れ去られた隠岐殿の行方を突き止めたのも市からの情報による(#18)。
蛇足
「たとえ陸奥や九州であろうと、伊賀者が動けば隣の家の様子を知るようなもの」というほどすごい情報網。各都市でそこに働く伊賀者が集まり定期的に開かれるようだ。たとえ敵方であろうとも、ある程度の情報交換は行われる。伊賀者は金銭による契約以上の関わりを雇い主との間に持たない。甲賀者が1人の主君に忠義を尽くすのとは対照的である。
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上臈(じょうろう)
徳川幕府が公家に対する人質として青子を江戸に下らせるために提示した大奥の役職。一度大奥に入ったら死ぬまで出ることはかなわない。もちろん輿入もできない。大納言家は青子は病気療養中と偽り下向を延期させていた。
蛇足
江戸幕府の大奥の職名。最高位。公家出身が多い。 ちなみに時代劇のセリフによくある「下郎の分際で…」の「下郎」は「下臈」の当て字であり、官位・身分の低い者という意味。
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公家衆法度(くげしゅう-はっと)
徳川幕府が朝廷に対して制定した法令。金地院崇伝が起草し、1613年(慶長18年6月16日)、京都所司代によって関白・鷹司信尚(たかつかさ-のぶひさ)に伝えられた。5ヶ条から成り、朝廷および公家の振る舞いを規制した。(#8
蛇足
家康は公家衆法度の発布により、徳川幕府が公家よりも上にあるということを公にした。それは前代未聞のことである。征夷大将軍とは武家の棟梁であり、朝廷の家臣の立場にあるもののはずである。それがあろうことか、主人に対して法令を発布したのである。この時点では5ヶ条(家職精励、違背者への罰則、勤務励行、放蕩行為の禁止と罰則)のみであり、天皇に関する条文は含まれてはいなかった。しかし、その2年後の1615年(元和元年7月17日)には「禁中並公家諸法度」17ヶ条が発布され、その条文には、まさに天皇を規定する文言が含まれていた。曰く「天子諸芸能之事、第一御学問也──」。
これには幕府の2つの意図が隠されている。第一は先に述べた、天皇を幕府の法の下に置くこと。第二は条文において、「天子(天皇)が修めるべきものの第一は学問である」と謳い、暗に天皇(朝廷)を政治から疎外しようとしたことである。幕府は、唯一政治に口出ししうる朝廷を圧制し、徳川幕府を確固たらしめんとしたのだ。
しかし、公家衆法度発布の起因は、公家衆自身にもある。この頃巷では、「かぶきもの」と呼ばれる奇抜な格好をし無頼な行動をとる者たちが横行。その風潮は公家の世界にも広がり、若い公家たちは家職を怠り、女歌舞伎や遊女を宮中に入れ、放蕩を重ねていた。そのようなさなかの1609年、時の後陽成(ごようせい)天皇を激怒させた「猪熊事件」が起こる。猪熊教利とはじめとする若い公家たちが、天皇の寵愛する官女を連れだし、乱行を重ねたというのである。この事件は、朝廷と幕府を巻き込んで大混乱を引き起こした。連座した公家や官女は、幕府によって死罪や流刑となったが、その処分を不服とした天皇は譲位を表明、朝幕関係が悪化した。(1611年、後陽成天皇は譲位し、後水尾天皇が即位する)
そして1613年、それは発布されたのである。さらに幕府は、2代将軍・秀忠の息女・和子(かずこ→入内して「まさこ」と改名)を無理矢理後水尾(ごみずのお)天皇に入内(輿入)させ、徳川家を皇家の外戚にしようとした。いずれは和子の生んだ皇子を天皇とし、朝廷さえも徳川の掌中に収めようとしたのだ。公家衆の不行状が、幕府にそういった機会を与えてしまったことは否めないが、この時の徳川幕府のやり方はかなり強引である。
そして、法度は公家以外に対しても発せられてた。すなわち「武家諸法度」「寺院諸法度」「勅許紫衣(ちょっきょしえ)法度」などである。これら法度の締めつけによって、多くの大名が改易させられ巷に牢人をあふれだし、のちの慶安の変(由井正雪の乱)を引き起こし、紫衣事件や後水尾上皇の院政などの歪みも生み出した。
こういった法治体制と、家康-家光下で行われた武断政治は、確かに戦のない世の中へとこの国を導いていったかもしれないが、才蔵や幸村、治作などが望む自由な生き方を否定する、堅苦しい、世知辛い世の中へと変えていったのである。「天下太平」と呼ばれる、経済的文化的繁栄が見られる時代は、もう少し先のことである。
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ゴロタ石(ごろた-いし)
呉呂太石。河原や道端にころがっている丸い石。城塞を積み上げる時に大石と大石の隙間に詰め、城壁を強固なものにする。幸村曰く「小さいと侮ってはいけない。小さいモノがその十倍もある大きいモノを支えるということがある。目立ちはせぬが、石垣を築くにはこの小石が必要なのだ。決して捨石ではない。大きな石を組んでも、これがなければ脆いもの。ゴロタ石なんて呼び方はこれに失礼だ、黄金の石と呼んでもおかしくない」。才蔵はこの幸村の話にいたく感動し、嫌がっていた徳川方の侍大将抹殺を嬉々としてはじめた。(#16
蛇足
五郎太石とも書くようだ。家康は九子義直(名古屋城主、尾張徳川家初代当主)に五郎太丸(五郎太)と名付け「この子は徳川の天下のゴロタ石だ」といって溺愛した(原作)。以降、尾張徳川家の嫡男は代々「五郎太丸(五郎太)」が幼名となる。
ところで、鉄道のレールの下に敷いてある石を「砕石」というが、この砕石がなぜ敷いてあるかご存知だろうか。枕木とレールだけだと、走る列車の重みで土にめり込んでしまう。ここに砕石を敷き詰めることで、列車が載ると砕石同志ががっちり噛み合って、列車の重みを分散させることができるのだ。しかしこの砕石、同じ大きさのモノばかりではうまく力の分散ができない。そこで大粒の間に小粒の石を詰め、より広く力の分散を図れるようにしている。まさに現代のゴロタ石(少々小ネタだが)。城とその城主、家臣、領民を支えたゴロタ石は、今、鉄道を利用する多くの日本の領民を支えているのだ。線路の保線作業には、砕けたり目減りした砕石を足す作業も含まれるのだが、最近は保守の効率化や人員削減の関係か、砕石の代わりにセメントを注入する工事が進んでおり、現代のゴロタ石は絶滅の危機にある。
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影法師
影法師(かげぼうし)
笛の音とともに現れ、京に集結している徳川軍の侍大将を次々と抹殺し、死体のそばに今様の短冊を残す謎の暗殺者。実は才蔵。黒い忍び装束に能面を付け、打掛を被っている。洛中の話題となり、ニセ影法師まで現れる。伊奈家3名、仙石家3名、小笠原家4名、島田家2名。いずれも病死として板倉に届けられたが、実は影法師に暗殺された。わかっているだけでもこれだけの被害者が出ていた模様。佐助たちは、影法師を利用して徳川軍の攪乱を謀る。獅子王院はニセ影法師を利用して分銅屋相州屋を襲い、隠岐殿を連れ去った。(#16-17
蛇足
佐助と隠岐殿に話を持ちかけられた時は「辻斬りなどはいやだ」と突っぱねたくせに、幸村にゴロタ石の話を聞いたらコロッと態度を180度かえ、勝手に始めちゃった。この「勝手に始めちゃう」ところが伊賀者…いやいや才蔵なんだろうな。俺は俺のやりたいようにやる、後は任せたってカンジか。それを阿吽の呼吸で引き受けて、すぐさま動き始める佐助。なかなかいいコンビになってきた。
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今様(いまよう)
今様歌(いまよう-うた)の略。平安中期に起こり鎌倉時代にかけて流行した新しい歌謡。影法師が残していく短冊に書かれていた。いわく、
  ゆきかあられか  おおみやの            (雪かあられか大宮の)
  つきのみやいの  わびずまい            (月の宮居のわびずまい)
  よをうしとすむ  かげぼうし            (世を憂しと住む影法師)
  うしやうし  ようもうし  うたうもうし  (憂しや憂し  酔うも憂し  うたうも憂し)
  こうるもうしや  かげぼうし            (恋うるも憂しや影法師)
この今様の短冊が洛中で評判となり、信乃青子がほしがった。歌の意味は、青子曰く「(雪かあられか〜わびずまい)これはまあよい。(世を憂しと〜)影法師は思うままにならぬこの世の無常をつらい思いで生きている。(憂しや憂し〜)酔うも無常、歌うも無常。(恋うるも〜)好いたお人がいるのに思うままにならぬのがつらいということじゃ」(#17
蛇足
今様の意味は「当世風」。前代に対する新興歌謡を指した。七五調または八五調四句の歌が多いが、短歌形式や不整形式など様々なかたちがある。後白河法皇がよく愛し「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)を編纂した。現代では単に七五調(八五調)四句の歌を指して「今様歌」と呼ぶようだ。
影法師の短冊の今様歌は「憂しの影法師」。意味は、月の光をあびて都大路をそぞろ歩きをしている者が、どこまでもついてくる自分の影が憂鬱であるとなげいているのである。歌うても憂鬱であるし、恋をしても憂鬱である、というかるい厭世の気分の歌。(原作)
「憂しの影法師」は第三句が七五調からはずれており破調になっている。誰もがよくしっている七五調四句の今様歌をひとつ引用してみよう。
  ほたるのひかり  まどのゆき
  ふみよむつきひ  かさねつつ
  いつしかとしも  すぎのとを
  あけてぞけさは  わかれゆく
そう、「蛍の光」である。ほかにも「いろは歌」「お正月」「北の宿から」「青春時代」「あヽ人生に涙あり(水戸黄門の主題歌)」「にっぽん昔ばなし(まんが日本昔話の主題歌)」などがあり、今様歌が身のまわりにあふれていることに気がつく。
「憂しの影法師」は司馬遼太郎作だろうか。原作に登場する才蔵が作ったのなら納得いくが、劇中の才蔵が作ったとはちょっと信じがたい。服部の御曹司は実は高学歴か。それでも書道は苦手だったらしい。佐助いわく「このへたくそな字ぃ見ればわかるぞ」、菊千代いわく「もうちょっと字がうまけりゃなあ」。散々に云われている。ちなみにニセ影法師が書いた短冊はもっとヘタだった。「才蔵の字もヘタですが、これはもっとひどいもんで…、これは字というよりは絵といった方が…、どっから読んでいいかわかりません」佐助、飛ばし過ぎ(渡辺篤史、アドリブか? 小野みゆきにかなりウケている)。劇中、青子がこの歌に節をつけて謡っている。邦楽指導・杵屋正邦(きねや-せいほう)が作曲したものか。青子の歌もさることながら、朗々と謡い上げる板倉の美声に驚いた。
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霞の陣(かすみ-の-じん)
藤堂家の宿陣である建仁寺に捕らわれている隠岐殿救出の際に才蔵が使った陣法。城を乗っ取るときの伊賀の技。食事や飲み水に使う井戸に3種の薬を入れて1日待つ。最初の薬が「惨(さん)」、軽い腹下しを引き起こす。続いて「瘴(しょう)」、気分を滅入らせる。最後に「癘(れい)」、眠気を誘い、身体の力を抜き、戦いに役立たなくする。
救出作戦の前夜に菊千代あざみが埋兵として建仁寺に潜入し、仕掛けをした。しかし隠岐殿の処刑が早まり、才蔵と佐助は霞の陣の効き目を待たずに隠岐殿の捕らわれている浴殿に急行した。(#18
蛇足
敵を倒すほどの毒物を用いないのは、毒死が出た場合、城内がさわいでその水を飲まなくなるから。この間、隠岐殿が出された食事や水を食さなくてもすむようにと与えられた忍びの食べ物は「飢渇丸(きかつがん)」。2〜3粒飲めば10日くらいは一片の食物もとらずにいられる。(原作)
それにしても急に効きすぎ。そしてこの時の隠岐殿は強すぎ。なんで獅子王院に捕まっちゃったんだろ。あの白い顔に臆したか。


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